忍者ブログ
おのづから言はぬを慕ふ人やあるとやすらふほどに年の暮れぬる(西行)
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

手塚治虫の漫画はほとんど読んだことがありません。『ブラック・ジャック』もよく知らないし、『火の鳥』や『三つ目が通る』もアニメでかじっただけ。『アドルフに告ぐ』は、幼少期通っていた病院の待合室に置いてありましたが、暗そうなので手に取りませんでした。

唯一家にあった手塚作品が、『アポロの歌』でした。小学校に入学したばかりの私にとっては、ストーリーはわけわからないしやたら裸が出てくるし、到底おもしろいと思えるシロモノではありませんでした。というか、なんでこんなマイナーな漫画「だけ」が家にあったのか、今考えてもわかりません。メジャーで子ども向けの作品なんて、あり余るほどあるはずなのに・・・。実はタイトルを思い出せず、記憶にあるキーワードで検索して、ようやくその物語の全貌をつい今しがた知ったのですが・・・これを理解できる7歳がいたら教えてほしいもんだ・・・。

大人になって、『陽だまりの樹』をはじめて読みました。幕末の動乱期というテーマの中に、確かな人間の生きざまというものが明確に描かれていたことに、打ち震えました。漫画とは思えない深淵な世界を描くことのできる手塚治虫という人は、すべてのジャンルを超越した不世出の天才なのだ、と。

今なら『アポロの歌』も『火の鳥』も『アドルフに告ぐ』もきちんと読めると思うのですが、漫画喫茶には置いてないんですよね。

そしてもちろんこの『どろろ』も、未読です。

時は戦乱の世、身体の48箇所を魔物に奪われた百鬼丸と、盗人小僧どろろの旅の物語。ただの冒険記ではなく、「異形」である百鬼丸の苦悩と、庶民たちの戦への怒りを描いているところが、手塚作品ならではのアプローチです。

『古事記』において、イザナギとイザナミが結ばれてはじめて産まれたのは「水蛭子」でした。ふたりはその「未完成品」を川に流し、新たなクニ=命作りにかかります。百鬼丸はまさにその水蛭子と同じ運命。なんとも凄惨な物語の幕開けです。産まれいでたにもかかわらず水に流された水蛭子のその後の道を、作者は描きたかったのでしょうか。

幸いにも医師に拾われ、身体の不足部分を補うことができた百鬼丸は、魔物退治の旅へと出ます。そこで出会ったのがどろろという少女。柴咲コウが演じるための設定かと思いきや、原作でもどうやら少年とは断定されていないようですね。どういう結末が用意されていたのか、なかなか興味深いです。

クールな顔立ちを活かした役が多い柴咲コウですが、小僧らしいはっちゃけぶりがなかなか似合っていました。これまた顔立ちとは真逆のクールな妻夫木も意外にかっこよかったです。中盤から登場する瑛太と中井貴一の存在感はイマイチでしたね。とくに父と子の葛藤の描かれなさ、想定内にしてもあっけない結末にはウームという感じでした。

ちょいとCGが安っちかったのが残念ですね。せっかくのアクションも台なしです。それと、あえて日本の戦国時代という設定を外したのはなぜでしょうか。外国とまるわかりの背景と和洋折衷の風俗描写がどうも中途半端で、世界観にイマイチ入りこめませんでした。

続編を示唆する終わりかたでしたが、製作されるのでしょうか。

原作を読んでみたい! と思わせるにはいい導入の映画でした。

評価:★★★☆☆

PR

『八甲田山』など日本を代表する名カメラマンである木村大作が、68歳にしてはじめて監督をつとめた作品です。

舞台は明治、日露戦争を終えた直後。陸軍測量部の柴崎は、国防のため日本地図唯一の空白地点である劔岳の測量を命じられる。かつて先人が幾度も挑んでは敗れた前人未到の難峰。陸軍が測量を急かすのにはわけがあった。ただ山登りだけを目的として発足した日本山岳会が同様に劔岳登頂をめざしており、軍部が金持ちの道楽に先を越されるわけにはいかないのである。

陸軍の威信をかけて、柴崎は立山へ出発する。

実は、浅野忠信主演の映画を観たのはこれがはじめてなのですが、寡黙で冷静な測量士を好演しています。国防や初登頂という名誉よりも、任された仕事を確実に、丁寧にこなす、いかにも技術屋ふうな素朴さが巧みです。

柴崎に同行するのは若手の測量助手・生田。血気盛んでせっかちで、でも情にはもろい、こういう役をやらせたら松田龍平の右に出る役者はいませんね。関係ないけど缶コーヒーのCMには萌えます。

そして彼らの登山を案内するのが、宇治長次郎。もうおなかいっぱいだよという感じの香川照之ですが、どの役からも全身全霊打ち込んでいる役者魂を感じます。今回も山案内人という役割に誇りを持つ山の男の静かなる炎がその両目に見えました。

順撮り・CGなし・空撮なしという、おそろしくアナログな方法で制作された作品だけあって、丁寧で繊細、かつ骨太でした。映画としての出来は非常に荒削りで演出も脚本も音響もイマイチなのですが、美しい夕空を背景にしたカット、一面の雪道を歩く測量隊の遠景など、山のありのままの風景を最大限に利用し、測量隊の登攀過程の苦しみ、恐怖、痛み、すべてが本能に直接伝わってくるようでした。

実際に山に登り、雪にまみれた出演者の談話はDVDに特典映像としておさめられていますが、笑っていいのかどうか悩んでしまうエピソードが多く語られていました。

現代においてこういう映画を作ることはむなかなかずかしいのかもしれませんが、たまには小手先の技術やちょこざいな演出にまどわされない、裸一貫のような作品を観てみるのも、いいことのように思います。

評価:★★★☆(3.3)

ドラマの再放送で鷲津さんのメガネに惚れた私。

今回、登場場面では裸眼だったので、「え、まさかコンタクトに!?」と愕然としたのも束の間、ちゃんとかけてくれました、メガネ。しかもアップで。わかってるわ~。

中国系ファンド会社を率いる残留孤児3世の劉一華は、日本有数の自動車メーカー《アカマ自動車》の買収に乗り出す。日本経済に嫌気がさして海外で隠遁生活を送っていた鷲津は、アカマの役員になっていた芝野に乞われ、劉とのマネー戦争に乗り出すことに。

企業買収をめぐって対峙するふたりのハゲタカ。果たして勝利の行方は・・・。

今回の見どころのひとつは、玉山鉄二演じる劉一華の存在。その美貌、そのメガネもさることながら、、かの天才ファンドマネージャー鷲津をもしのぐ頭脳と、中国国家をバックとする潤沢な資金で、日本人として日本の象徴であるアカマを救いたいというその言葉とは裏腹に、鷲津を、日本を追い詰めていきます。

よくいるイケメン俳優のひとりかと見くびっていました、タマテツ。難しい役柄ながら、大森南朋を前にしても決して見劣りしない、見事な演技をくり広げました。白眉だったのは、劉に利用されたと知り札束を床にばらまいた派遣工に「拾え!」と激昂する場面です。

這いつくばってカネをあさる「持たざる者」。かつての己の姿だった。遠い昔中国の農村で目にしたアカマのスポーツカーに憧れた。だから「持つ者」をめざした。しかし持てば持つほど、その思いとは遠ざかる。「持つ」ことは「失う」ことだった。鷲津はそれを知っていた。劉はそれから目をそらした。ゆえに、「持つ者」の悲劇が訪れる。

結論から言うと、ドラマの時の緊張感が、この映画には少し欠けていたようです。それもそのはず、リーマンショックにより脚本の8割を変更せざるをえなかったとか。しかしかの事象を彷彿とさせるマネーゲームのありさまに、身震いさえ憶えました。登場する派遣工の弱者的立場、また彼らをいいようにこき使う企業の姿も、非常にリアルです。

それでも経済という難しいテーマを扱いながら、「カネ」と「ヒトノココロ」という、対立するふたつの要素を見事に融合させ、ひとつの作品として昇華させたスタッフの手腕には感動すら憶えます。

旅館の旦那におさまって、今回は少し陰の薄かった松田龍平の出現がやや唐突で、ドラマを観ていない人には少し不親切ではありますが、それを差し引いても映画作品としてじゅうぶん楽しめる価値のある作品でした。

評価:★★★★☆

クリント・イーストウッド監督がみずから「演じるのは最後」と主演をつとめた、まるで監督自身の人生観を凝縮されたような男気あふれる作品となっています。

物語は、絵に描いたような頑固じじいのウォルトの妻の葬儀から始まります。

その気性のせいで息子たちとは溝ができ、唯一の理解者であった妻の頼みで様子を見に来た神父も追い返し、相手をしてくれるのは飼い犬と愛車グラン・トリノと缶ビールだけ。住み慣れた街は様変わりし、アジア系の住民が増えて治安も悪くなっている。隣に越してきたのも彼が忌み嫌うアジア系の一家。しかしウォルトは他のアメリカ人のように街を離れることはしない。それもまた彼の頑迷さ故なのか。

隣家の息子・タオは不良グループの一員である従兄の言うがままに、ウォルトの愛車を盗みに入るが失敗。タオは怒った不良たちに庭先で暴行を受けるが、芝生を荒らされることを嫌ったウォルトが奇しくも助けたかっこうに。また、タオの姉スーがならず者に囲まれていた時も通りかかってトラックに乗せたのはウォルト。一家の豪華な料理と感謝の意を受け、とまどいながらもウォルトは、いつの間にか嫌っていたはずの隣家とかかわりを持っていくことに。

硬質で淡々と進んでいった『チェンジリング』とは一転、台詞や展開のところどころにユーモアを差し挟みながら、今回は監督の主張といったものが見え隠れします。

ズバリ、男の生きざま。

日本車を否定し、人種差別意識を捨てようとせず、今時の若者を嫌い、神も仏も信じない。しかし妻を愛する言葉は惜しまず、若い女の子の誘いと旨い料理には弱い。自身の教えを忠実に実行するタオには与うるかぎりの経験と知識を与える。決して弱みは見せない。最後まで。

監督の描くところは明快です。ウォルトという愛すべきひとりの人間の一生。悔いを多く残す過去とその償いのために与えられたような最後の日々。そして彼が大事にしていたグラン・トリノとその生きざまを譲り受けたタオの未来。衝撃のラストと謳いながらも、その予測は多くの観客がしていたところでしょう。しかし過大広告とは思わない。悲しくもあたたかい涙がじわり心を潤す。この非常に分かりやすくシンプルな物語が、大きな感動を呼び起こしたところは衝撃なのかもしれませんが。

シンプル以上の美はないと思う。

石と砂だけの枯山水に哲学を見るように。水墨画の景観が世界を表現するように。

一切の下心を捨てて、余分なものを削ぎ落としたクリント・イーストウッド監督の作品もまた、美を極めた芸術であると思います。

評価:★★★★(4.3)

 

~ヤスオーのシネマ坊主<第2部>~

 いつものイーストウッド映画ですね。ストーリーはいたって単純で、驚くような展開もないし、オチも驚くようなものではないですが、結末に向けた一つ一つのエピソードにまったく無駄がないです。キャラクター設定もベタベタですが、人間関係を丁寧に描いているので、一人一人の人間の感情が自然に理解でき、行動にも違和感を感じさせません。作品としての完成度は間違いなく高いです。この映画はアカデミー作品賞にはノミネートされていないようですが、完成度の高さは作品賞の「スラムドッグ・ミリオネア」と同レベルにはあるでしょう。クリント・イーストウッドが嫌いな僕が言うのだから間違いないです。

 また、「オレは自分の撮りたいものを撮っているんだ」という僕が映画を評価する上で最も重視する監督の信念も十分に伝わって来ます。民族という繊細なテーマを扱っているのにまったく説教臭くないところや、主人公がラストで死ぬのにお涙頂戴の空気にならないところが、この人の「撮りたいもの」がまったくブレていない証拠でしょう。「警察が来るように神に願ったが来てくれなかった」などのちょっとしたセリフにもセンスがあります。懺悔シーンでカメラが神父目線なところや、主人公の病名をきっちり伝えてくれないところなど、鼻につかないぐらいのちょっとした工夫も関心します。まったくもってケチのつけようがない映画です。

 まあ、ケチをつけるとしたら、登場人物の善悪がはっきりしすぎているところと、主人公が「グラン・トリノ」になぜ乗らないのかが良くわからないことぐらいですかね。あと、基本的に、僕は監督と主演が同一人物の作品は「どうせ自分をカッコ良く撮ってるんやろ。」とそいつをナルシストに感じてしまうため好きではありません。僕はイーストウッドを元からナルシストと思っているのでこの映画では余計にそう感じてしまいました。演技自体は悪くはなかったんですけどね。

  僕は、野球で言えばストレートしか投げないようなイーストウッドの映画作りの姿勢は好きではないんですが、ストレートだけでも充分に相手打者を抑えることが出来る(=充実した映画を作れる)のなら、それはそれでいいような気もしてきましたね。同じストレートでも彼の球はとても力強く、打ちにくいのでしょう。、「ミスティック・リバー」、「ミリオンダラー・ベイビー」、「チェンジリング」、この映画と僕がここ数年見た彼の映画は好き嫌いは別にしてどれも完成度は非常に高いですし、彼以外のスタッフも優秀なんでしょうが、イーストウッド自体も映画作りの才能がないことはないんでしょうね。そろそろ認めざるをえない時期が来たようです。  

評価(★×10で満点):★★★★★★★★

拡大写真表示

~ヤスオーのシネマ坊主<第2部>~

 この映画は、意外にテーマは深いと思います。主人公の凸川という作家はどんな方法で殺しても死なない信じられないぐらい鈍感な男です。また、殺そうとしている人間と仲良くしようとするぐらい(自分を殺そうとしている事実すら認めない)底抜けに明るい男です。ホストクラブの店長の江田と警察官の岡本に子どもの頃いじめられていたんですが、そのことも覚えていないと言います。なぜこの男がそこまで鈍感で明るいかは映画では明確にされていないんですが、ここらあたりは、いわゆる昔いじめっ子だった奴はいじめたことは忘れても、いじめられた方はいじめられた方をずっと覚えていて、思い出したら苦しむ状況が一生続くみたいなことを逆の形で喩えていますね。江田と岡本は過去の自分達の行いが小説で発表されるのを恐れて苦しみますから。

 もちろん、凸川は過去いじめられたことに何も感じてないわけではないと思いますよ。最後の最後まで自分は小説は書いていないと嘘を言い張るし、もちろんその小説のタイトルの「鈍獣」は自分のことではなく人の苦しみが分からない江田と岡本のことだと思うし、何かしらの思いはあるんだと思います。凸川が能天気な人間なのも、過去の悲しみがもはや理性を超えているところまで到達しているからだと思いますね。まあ、過去のいじめられた悲しみから逃避するのではなく、がっつり向き合えばこの主人公のように超人的な鈍感力を得て、逆にその鈍感さでいじめた人間を苦しめることができるということでしょう。とても健全な復讐でいいことだと思います。過去の傷には一番の処方箋でしょう

 しかし映画自体が面白かったかというと、そうでもなかったですね。やっぱりラストがダメなんでしょう。凸川、江田、岡本の間に友情が生まれたような感じで爽やかにまとめ、エンディングでゆずの歌がかかるんですが、これは一番やってほしくなかった終わり方ですね。この映画は最後シリアスな形でまとめないと、凸川の心理を色々考えていた自分がバカみたいになってしまいます。「これはナンセンスコメディなんやからこれでいいんや。凸川の鈍感さに何も考えんと笑って最後は感動すりゃいいんや。」と言われればそれまでですが、シンプルなナンセンスコメディ映画として見たら全然面白くもないし、感動もしないですね。コメディ映画で最近良かったのと言えば「セブンティーン・アゲイン」ですが、この映画には「セブンティーン・アゲイン」のような素直に人を楽しませよう、感動させようという思いがまったくないですから。

 僕はクドカンの作品はこの映画と「少年メリケンサック」しか観ていませんが、自然にストーリーが理解でき、言葉のチョイスにもセンスがある脚本から考えて才能があるのは間違いないんですが、たぶん人の感情や心のつながりを素直に描くことができないヒネた人なんでしょうね。ただ「少年メリケンサック」はクドカンのパンクに対するまっすぐな熱い思いが根底にあるから、こっちも素直に楽しめて感動できましたが、この映画はクドカンの屈折した部分がそのまま出てしまっているような感じです。これで素直に楽しんだり感動したりはなかなかできないと思いますよ。映画に深みを与えたいのか、シンプルに人を楽しませたいのか、どっちかにきちんと寄ってほしいですね。

評価(★×10で満点):★★★

カレンダー
12 2025/01 02
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
プロフィール
HN:
さや
性別:
女性
自己紹介:
ヤスオーと古都の片隅で暮らしています。プロ野球と連ドラ視聴の日々さまざま。
ブログ内検索
バーコード
ATOM  
ATOM 
RSS  
RSS 
Copyright ©   風花の庭   All Rights Reserved
Design by MMIT  Powered by NINJA TOOLS
忍者ブログ [PR]