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亡くなった父親の跡を追い、警察犬訓練士を目指す望月杏子は、訓練所で小さなラブラドール・レトリバーと出会う。「きな子」と名付け、この病弱な犬を一人前の警察犬に育てようとする杏子。かくして見習いコンビ「あん子・きな子」は警察犬試験に向けて特訓をはじめるが、失敗ばかりの日々が続く。
舞台は香川県。山並みと照り映える海の風景が美しい町です。
大きな夢とあこがれを胸に抱いて、警察犬訓練所に飛び込んだ杏子。しかしそこには辛い現実が待っています。厳しい上司、雑用ばかりで寝る時間も削られる毎日。かんじんのきな子はなかなか言うことをきいてくれない。迷い、挫折。そして最後に、希望。
姪っ子のつきそいでなければ、映画館に観に行くことはおろか、レンタルすることすらなかっただろうなあ・・・というような、純邦画チック、オーソドックスな作品ですが、最後まで飽きることなく物語に入りこめました。
杏子を演じた夏帆は、雑然とした訓練所に化粧っけのない作業着でもちゃんと清潔感が漂っていて、好感が持てました。彼女が居候する上司一家四人もキャラクターが立っていて、個性的。寺脇康文はやや大仰でしたけれど、頑固おやじの夫をサポートするしっかり妻の戸田菜穂や料理人をめざすやや草食系の長男と、バランスが取れています。
特筆ものなのが、娘の新奈。最近の子役はホント上手だなあ、と唸らされました。「親が仕事ばかりで構ってもらえない」せいか、ヒネくれていてかわいげのない女の子。杏子にも兄にもおよそ子どもらしくないズバズバしたもの言いで、館内の笑いを誘います。でもちゃんと最後には落としどころが待っています。むしろこの映画でいちばん魅力的だったのは、きな子でも杏子でもなく、彼女だったのではないでしょうか。
正直、動物ものは苦手です。人間と犬との絆なんて、どっちかが死ぬというのがお決まりだからです。お決まりなのがイヤなのではなく、絶対に泣いてしまうからです。
しかしこれは実話ものとはいいながら、誰も死にません。原作は読んだこともなく、きな子という犬の存在すら知らなかったのですが、終始あかるいコメディタッチで、最後に少しクサい展開が待っていたものの(わかっていながら涙ぐんでしまったものの)いわゆるお涙頂戴ものではありませんでした。そして、最後の最後まで、笑ってしまうオチがあるのです。エンドロールが唐突だったので、アレ? と思ったら、やっぱりそういうことですか。
競走馬は、毎年多くの命が生み出されながら、素質のない者は淘汰されていきます。
しかし警察犬はそうではありません。素質がなければ、どこかに飼い犬としてもらわれていって、ノンビリ生きることだってできるのです。きな子も、杏子と出会わなければ、そういう犬生を歩んだのかもしれません。
きな子の現在が、果たして彼女の望んだものだったのかどうか。それは本犬に訊かなければわかりません。素質がないと思われる犬に毎日厳しい訓練を課すということに、思うところは、人によってさまざまでしょう。
きな子の挑戦が、いろんな人を勇気づけたこと。それが結果的に彼女を一躍アイドルにしてしまったこと。それが肯定的とも懐疑的とも取れる描き方だったために、主題が少しブレてしまったような気がしました。
評価:★★★☆☆
最近、笑福亭鶴瓶が俳優としてよく使われていますが、私がはじめて演技を観たのは『ブラックジャックによろしく』の小児科医役で、それがあまりにもヒドかったので(脚本もヒドかったが)今回も医者役と聞いて、正直まったく期待はしていませんでした。しかも『ゆれる』『蛇イチゴ』の西川美和監督作品。監督独特の「嘘」には相当な演技力が問われます。
過疎の村。長らく無医村状態が続いていたこの地にやってきた医師・伊野。気のりしないまま研修医として派遣されてきた相馬は、伊野が村民たちに献身的に尽くし、また村民たちも彼に絶大な信頼を寄せていることを目の当たりにし、次第に共感を憶えていく。しかしある日、伊野は村から忽然と姿を消した。
オープニングから次第にひも解かれていく真実。うつり変わりゆくひとの心。時に真実、時に嘘。時に中身あり時に空になる言葉たち。
少なくとも彼が医療行為をしていた間、伊野は村民の希望だった。しかし贋医者だったとわかった途端、村民はあっさりと態度を翻す。伊野に心酔していた相馬までも、保身のために伊野を貶める証言をする。しかし我々と同じ第三者の立場である警察はそれに共感するわけでもなく、あきれるわけでもなく、淡々と事情聴取をくり返す。
作品は、こちらの感傷を拒絶する。
真実――今回で言えばつまり伊野の動機になるのかもしれないが――がどこにあったのか、それは最後まで本人の口から語られることはない。伊野の行為が正しかったのか、間違っていたのか、観ている側の判断基準はそこで失われてしまう。伊野は結局、誰にも裁かれることなくラストを迎える。
次第に、どうでもよくなってくる。
嘘も真実も。善も悪も。好意も悪意も。
「その嘘は、罪ですか」
第三者が断罪する必要はない。表裏一体。それが本来の人間の姿だから。
ありきたりな日常風景の中にもくり返し映し出されているはずの一面。ひとは無意識のうちに、やり過ごす。それが連綿と続いてきた人の営み。
その断片を切り取って、心にスタンプを捺していく。しかしそのかたちは判然としない。インクが薄いからなのか。それとも、ひとの心がかたちを持たないからなのか。
田舎の夏の風景が美しく、画面に映えていました。稲波とスイカ。縁側と川遊び。なつかしいかたちの扇風機。郷愁誘う背景に、いかにも都会的で軽薄なボンボンの瑛太が次第に村に馴染んでいく様子も秀逸でした。
八千草薫をはじめ、余貴美子や香川照之など豪華すぎる配役は少しアクが強かったかもしれません。少なくとも、岩松了は蛇足ですね。もったいなさすぎ。
鶴瓶は思ったよりも良かったです。少なくとも『ブラックジャック』よりは何倍も。ただし物語のキーとなる瑛太とスイカのシーンで、本職ではない演技力の乏しさが出てしまい、少しインパクトが削がれてしまったのが残念でした。
評価:★★★★☆
~ヤスオーのシネマ坊主<第2部>~
「蛇イチゴ」、「ゆれる」の西川美和監督ですね。僕は両方とも★6~8ぐらいは付けていたと思います。この監督は世間では非常に評判が良く、僕は世間に迎合するのはそんなに好きではないのですが、やはりこの監督がそれなりにいい映画監督なのは認めざるをえないでしょう。見習い医師の瑛太が村に来て鶴瓶と一緒に最初の患者のところに行くときに、釣瓶に「わたし、免許ないんですわ。」と言わせるところがもうのっけからさすがのセンスですし、前2作と相変わらずのテーマですが「嘘」の描写がとても上手です。
その嘘の中の一つとして、鶴瓶が明らかに胃ガンである八千草薫の「医者である娘に迷惑をかけたくない」という意思を尊重し、娘が自分のところに来てもただの胃潰瘍だと嘘を言ってカルテまで偽造するのですが、娘が次に母親に会えるのが一年後というのを知って、村を逃げてしまいます。僕も見ていて、鶴瓶がいったい誰のために、何のために嘘をついているのかわからなくなって、さや氏に「何で胃ガンって言えへんねん」と映画の途中でギャーギャー言ってしまいましたが、鶴瓶も初めは八千草薫のためにと思って嘘をついたのに、この嘘のせいで母娘が今生の別れになって、結局誰も幸せにならないということがわかっていまい、自分が何をやってるんだかわからなくなったんでしょうね。この映画のもっと大きな嘘として鶴瓶がニセ医者だということがありますが、村人はみんな医者の鶴瓶を尊敬し、神様扱いします。そして鶴瓶もその期待に応えたいと努力しています。ただ、瑛太との言い争いの場面で分かるように、「自分が尊敬されているのか、医者だから尊敬されているのか」ということがこれもだんだん本人がわからなくなってきています。このへんの「嘘」の描き方はさすがとしか言いようがないです。文章で書くと全然面白くないんですが、嘘一つでここまで人間の心の葛藤を上手に描ける監督はこの人しかいないと思います。
また、この人の映画はテーマが「嘘」ということで見てて何となく落ち着かないというか、どこか身体がぞわぞわするのですが、今回は八千草薫と余貴美子が本当は鶴瓶はニセ医者だということに気づいているんじゃないかなというところにかなりぞわぞわしましたね。二人とも普段はニコニコしているくせに、要所で何とも言えない翳りのある表情をしています。この二人の醸し出す不安定な感情の動きが、作品により深みを与えている気がしました。この二人と、香川照之が演じる鶴瓶がニセ医者だと知っている薬の営業マンの合計3人は、鶴瓶がどうして無医村でニセ医者を志し、少しでも本当の医者に近づけるよう努力しているのかを、村人からの尊敬とか医者の父親へのコンプレックスとか年2000万の収入とかそういう単純なものではないもっと別の複雑なものを、それぞれ違う角度からこちらに感じさせていますね。このへんは監督の演出能力だけでなく、役者の演技能力にもかかってくるのですが、八千草薫、余貴美子、香川照之ですからね。まさに鉄壁の布陣です。この3人に比べて演技能力が劣る瑛太は明らかに気づいていない役だったので、問題ありませんでした。
というわけで世間の評判通り非常に出来の良い映画なんですが、ラスト3分間ぐらいは本当にダメでしたね。まずそれぞれの生活に頑張っている余貴美子、瑛太、香川照之が映し出されます。ニセ医者だということを完全に知っている香川照之は鶴瓶を弱みにつけこんでちょっとゆすっているようなシーンがあったし、瑛太は現代医療とは異なる鶴瓶の姿にすっかり舞い上がっていたくせにニセ医者だと気づいて失望してすっかり現実に引き戻され、鶴瓶のことを「うさんくさいと思っていた」とまで言ってのけるので、たぶん監督はこいつらの頑張っているシーンを映して「人間は善人とか悪人とか簡単に決めれないよ。みんな頑張っているんだよ。」と言いたかったんでしょうが、他の映画でもよく見られがちなかなり薄っぺらい描写です。さらにもっとイヤなのがその次の本当のラストのシーンです。自分の病室に突如現れた鶴瓶を見て、八千草薫がとびきりの笑顔を見せるのですが、鶴瓶が現れるということがそもそも「もしかしてこの婆さんが好きだったのか?」とゲスな勘ぐりをしてしまいますし、「鶴瓶はニセ医者なのだが、八千草薫にとっては本物の医者以上の名医であったのだ!」という「鶴瓶はニセ医者なのだが、無医村問題に悩む村人達にとっては欠かすことのできない名医であったのだ!」と同じく絶対にやってはいけないオチすら連想させてしまいます。ここまで長文の感想を書いても他にも書きたいことがまだまだあるぐらい色々考えさせてくれる映画で、ラストさえ良ければ★9や10もあった映画なのに、このラストはとても残念ですね。
評価(★×10で満点):★★★★★★★★
8年前の映画ですが、松田龍平・新井浩文・高岡蒼佑・瑛太(この頃はEITA)と、今をときめく役者の若き姿がめじろおしです。
舞台はどうやらあまりデキがよろしくないと思われる男子校。不良グループは屋上の柵の外で何回手を叩けるかという根性だめしで番長を決めていた。
桜の季節。8回という新記録を打ち立てめでたく今年度の番長になった九條。しかし彼はゲームも学校を仕切ることにも興味はない。仲間たちもそれぞれの立場で、将来に、今の自分に向き合っていく。ある者は罪を犯して警察へ。ある者は甲子園への夢破れて極道へ。そして、九條の古くからの友人である青木もまた、今までと違う日常へ踏み出していく。
18歳。昨日と同じ毎日に違和感を抱き始めて。といって未来に夢を語れるほど幼くもなく。花はやがて枯れていく現実を知る。知れば知るほど、明日は黒く閉ざされて。
「天国」である学校で漫然と日々を過ごし、虚無的に空を見上げる九條。その「唯一の友人」である青木にとってもまた、彼は同じ存在であったに違いない。「天国」には時間制限がある。せめてその間だけでも、漫然と過ごしていたかったはずだろう。しかしゲームは九條を選んだ。学校の「トップ」となった「友人」に対し、距離感を生み出したのは青木自身だったのかもしれない。漫然と過ぎる日々は終焉を迎えた。しかし九條はそれに気づかない。気づいているのに、気づかないふりをした。毎日同じ青い空を見上げていた。斜に構えていれば楽だった。現実と向き合わずに済むのだから。その役目は青木ひとりに負わされた。青木の見た現実は黒く塗りつぶされた。青木の思いを九條が知った時は、すべてが終わったあとだった。
この世の中で自分だけが正しいと思っていた。
大人になんかなりたくなかった。
なんのために生きているのかわからなかった。
その証が欲しかった。
青春をとっくに過ぎ、朱夏の季節に入っていても、そういう時期があったことを忘れてはいない。
ひこうき雲が青い空を割るように。心をすっと切り裂いていく作品でした。
評価:★★★★☆(3.6)
教会、少年、父親、恋。
こういうキーワードから、重松清『疾走』のような物語だと思っていました。
まったく違いましたね・・・。
『疾走』はどこまでも暗闇で心臓を直接ひっかきまわされるような痛みをともなう小説でしたが、こちらは主人公の心情を感じようとするとスルッと逃げられるような、どこかつかみどころのない空気感(空洞)をはらんだ作品でした。
上映時間237分。長い。DVDも上下に分かれています。ツタヤディスカスでは上巻しか届かず、観終わってすぐにレンタルショップに行って下巻を借りてきました。最初からそうすればよかった。
神父の父を持つユウ。亡くなった母の遺した「いつかマリア様のような人を見つけなさい」という言葉を胸に、穏やかな日々を過ごしていた。しかし父にカオリという愛人ができてから、生活は一変する。カオリに逃げられた父は豹変し、ユウに懺悔を求めるようになった。ごく普通の高校生であるユウには懺悔すべき罪が思い当たらず、やむなく「罪を作る」ことをはじめる。それが「盗撮」。プロの盗撮技術を身につけたユウだったが、性的興奮は得られない。そんなある日、ユウは「マリア」と出逢う。不良軍団をカンフーで叩きのめしていた少女ヨーコ。罰ゲームで女装していたユウは彼女に加勢し、「サソリ」と名乗って別れる。ふたりは互いに恋をした。性欲を憶えた。が、実はヨーコは父と復縁したカオリの娘だった。兄妹として同居することになったふたりだが、ユウは自分が「サソリ」であることを伝えられない。しかし、彼らの前に「サソリ」と名乗る女が現れた。新興宗教ゼロ教団の幹部であるコイケ。ふたりの高校に転校してきた彼女は、自分がサソリであると思わせヨーコに近づき、家庭に入り込み洗脳し、ユウを追い出してしまう。ユウはヨーコを救うため、ゼロ教団に戦いを挑む。
盗撮、新興宗教、近親相姦、レズビアン。アングラの世界がこれでもかと詰め込まれています。しかし後ろめたさや排他的な精神はいっさい存在しません。アクロバティックなカメラワークとスピード感あふれる場面展開で、息をつかせることなく一気にその変態的世界観を一枚のカンバスにまとめあげています。
愛、という言葉。
人が生まれてはじめて受けるべき愛、それは親からの愛だろう。そして成長する。やがて赤の他人を好きになる。性欲が芽生える。愛という崇高な精神からはかけ離れた、汚い、醜い感情に支配される。神が作り上げた大いなる矛盾。しかし愛に紡がれた糸が命を包む布となるには、その汚泥に踏み込まなくてはいけないわけで。それが人の原罪であるともいう。
私はクリスチャンではないから、原罪と言われてもピンとこない。だが、学生時代三浦綾子に傾倒していたため、愛が崇高であることは知っている。愛が忍耐強く、情け深く、妬まず、奢らず、高ぶらず、礼を忘れず、利益を求めず、怒らず、恨まぬものであるべきことも知っている。そして信仰の世界にあるその定義が一種の理想となってしまっていることも今となっては感じずにはいられない。
親から虐待を受け、家族という共同体に不信を抱くヨーコとコイケ。罪を懺悔することで父からの愛を得られると信じ己を保つユウ。三人は人として満たされるべき第一の器を空っぽにしたまま第二の器を磨いていく。だからこそ、矛盾をたやすく飛び越える。あまりにも純粋に、むきだしで、愛を求めるがゆえに。
それでも愛に飢えた悲愴感は誰にもありません。ばかばかしくて、滑稽で、不気味で、それでいて呆れるくらいに真剣です。
次から次へとつむじ風が吹き過ぎていったような237分の空洞の中で、唯一心に入り込んできたこと。それは、ユウとヨーコの出会いを「奇跡」と呼んだこと。
赤の他人同士の間に愛が生まれる。それは運命でなく奇跡である。
評価:★★★★☆(3.8)
~ヤスオーのシネマ坊主<第2部>~
4時間というくそ長い尺にも関わらず一気に観れました。ぐうたらな僕が、「上」を見たその日にレンタルビデオ屋に「下」を借りに行くぐらいですから、観ててなぜか夢中になってしまう映画なのは確かです。ストーリー自体そんなに面白くないと思うんですが、キャラクターに個性がありおかしな奴ばかりなので、この先何が起こるかつい気になってしまいますね。ただ、それぞれのキャラクターに魅力があるわけではないです。僕は主要人物3人は全員好きじゃないですから。みんな親の愛をまったく受けていないのはわかるんですが、それにしてもここまでおかしくなるとは思えないですから、感情移入はできませんでした。
愛は理屈じゃないというこの映画のテーマは非常によく伝わってきました。誕生日に手をつないでどっかデートして夜に夜景の見えるところに行ってプレゼントを渡すとかそういうのは愛ではないと思いますし、この映画で言うように愛=勃起=変態だと思います。また、この映画はどちらかというと愛を賞賛して、キリスト教も新興宗教もすべてひっくるめて信仰を批判しているような描き方ですが、信仰という同じく理屈ではないものと対比する描き方もなかなか良かったですね。
ただ、変態の描き方には甘さを感じましたね。僕は自分では盗撮はしませんが、盗撮もののAVはけっこう好きなジャンルなので、それなりのこだわりがあります。たぶんこの監督は盗撮を映画の重要な題材にしているわりに盗撮自体にはそんなに興味がないんでしょうね。盗撮は当たり前ですがとても難しいです。僕は実際に盗撮界ではそれなりに名の通った人の撮った映像も見ていますが、彼らは日々撮影方法に苦悩し技術を極め本当に信じられないような複雑なアングルを駆使し、強い意志を持って玉砕覚悟でパンチラを撮っています。その人達に比べたら主人公のユウは盗撮のプリンスと言われているわりには、血の滲むような特訓をしているようなシーンも特になく、プリンスと呼ばれる説得材料は何もありません。この映画では盗撮はストーリーの重要な鍵になっていますから、そのへんはもうちょっとこだわってほしかったですね。
ラストの方の、白い部屋でユウの家族とコイケとその仲間達が鍋を食っているシーンはまったくもって意味不明でしたね。コイケはその生い立ちから考えて家族のだんらんなんか興味なさそうだし、あえてユウに見せつけるためにこういうことをしたのでしょうか。しかしユウ自体も家族のだんらんにこだわりがあるとも思えないし、そういうことをする意味がわかりません。また、同じくコイケがヨーコに、ユウの勃起しているチンポを切り落としてしまえと命令するシーンがあるんですが、ここでヨーコがとまどう意味もわかりません。ヨーコはこの時はユウの事も男(キリストとカート・コバーン以外)の事も嫌いなはずですし、洗脳されていてコイケには心酔しているはずですから、切らなきゃだめでしょう。まあこういうふうに要所でよくわからないところもあったのですが、全体的に見たらまあまあの映画でした。評判ほど良いとは思わなかったですが。
評価(★×10で満点):★★★★★★
織田裕二の当たり役『踊る大捜査線』が絶賛公開中ですが、連ドラも映画も観たことがない私は蚊帳の外。
で、『踊る』に続く織田裕二のシリーズもの登場? と謳われたこの作品。今度は外交官です。警察官とか県庁さんとか、公務員づいていますね。『お金がない!』の三枚目も良かったですが、今回のような、『振り返れば奴がいる』や『真夜中の雨』に似たクールなキャラクターのほうが、個人的には好きです。
舞台はイタリア。アマルフィ、という場所はまったく知りませんでした。確かに画面映えする美しいところです。こんな観光地があったとは。何ヶ国か海外旅行をした中で、イタリアは唯一もう一度訪れてみたいと思う国です。機会があればぜひアマルフィにも足を運んでみたい。
G8会議に出席する外務大臣の受け入れ準備に追われる日本大使館。特命を受け赴任したばかりの外交官・黒田は、ある日本人少女の誘拐事件に巻き込まれてしまう。正体不明の誘拐犯、改ざんされた監視カメラ、なかなか手掛かりのつかめない中、黒田はある日本人に疑念を抱く・・・。
犯人探しに関しては、かなり最初の段階でわかってしまいますので、これはこの映画においてあまり重要ポイントではないようです。動機と真の目的と誘拐事件のかかわりも繋がっているんだかいないんだかよくわからないし・・・。黒田というキャラクターのカッコ良さと、イタリアの街並みの美しさが伝わればそれで良いということでしょうか。
要所要所の矛盾点に目を瞑れば、充分に楽しめる映画でした。織田裕二も佐藤浩市も天海祐希も戸田恵理香も好きだし。
ただ、もし続編があるならば、せめて犯人くらいわからないようにしてほしいですね。
評価:★★★★☆(3.2)