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惑星パンドラ。人類はこの星に埋まる鉱物を手に入れるため、「アバター・プロジェクト」に着手していた。先住民ナヴィと人間のDNAを組み合わせた、アバターと呼ばれる肉体を手に入れた元海兵隊員ジェイク。下半身不随で車椅子生活を送っていた彼は、仮の身体でパンドラを駈ける。仲間とはぐれ、惑星の生物に襲われかけたジェイクだが、先住民の王女ネイティリに危ういところを救われる。
危機一髪を助ける→恋に落ちるフラグ確定。
「自然」と「文明」の戦い、ポット出の新入りに嫉妬する男、かっこいい女パイロット、割と重要な脇役の死、などなど娯楽作品では使い古されたポイント多。
つまりストーリーは非常に簡単。
しかし映像の迫力がすさまじく、いつの間にかジェイクとともにパンドラへ入り込み、その世界観を堪能していました。最後の戦闘シーンは手に汗を握る興奮。家で観たので、もちろん2Dですが、3Dで観なかったことをつくづく後悔します。
物語は導入部が『もののけ姫』に似ているなと感じました。しかし考えてみたら、『もののけ姫』に限らず、『ラピュタ』も『ナウシカ』も、異界と人間の交流という点で同じテーマを根底にしています。ジェームズ・キャメロン監督は宮崎アニメファンを公言しているそうですから、影響を受けたのでしょう。しかしパクリとか二番煎じとか、言わせないほどのパワーがこの映画にあります。
それにしても、『ラピュタ』が実写で撮影できる時代が来るとは思いませんでした。
評価:★★★★☆
~ヤスオーのシネマ坊主<第2部>~
まず最初に言いますが、162分は長いです。DVDで2日に分けて観たぐらいです。ただ、文句を言うとしたらそこぐらいでしょう。ハリウッド超大作としては出来は決して悪くないです。設定もストーリーもテーマもありがちで、登場人物も非常に分かりやすい性格の人ばかりなのですが、娯楽映画としては頭を使わずに純粋に楽しめるということでむしろいいのではないかと思います。これぐらいの出来に達しているのなら映画館で観れば良かったです。周りでの評判が悪くて止めたのですが。
主人公のジェイクがヒロインのネイティリにナヴィの文化やしきたりを学ぶシーンが執拗に長いのですが、ここで僕も知らず知らずのうちにナヴィの文化やしきたりを学び、見た目はまったく馴染めそうにない彼らに馴染んでしまいました。そして美しいパンドラの自然の映像と、その自然との繋がりを大事にする彼らを見ているうちに、ああパンドラを守らなければいかんなあという気持ちに少しはなってきます。そしてあの印象的な大樹が倒されるシーンで僕の気持ちは決定的にナヴィ側に傾いていましたので、最期の戦いもちゃんと楽しめました。この映画は押さえるところはきっちり押さえていると思いますよ。
その最期の戦いにはやはりこの映画の中で最も迫力がありました。それまでのジェイクが変な怪物に追いかけまわされて最期滝に落ちるところや、ジェイクとネイティリがバンシーに乗って空を飛んでいるときにレオノプテリクスに追いかけまわされるシーンなども良かったのですが、最期の戦いはナヴィ以外の色々な部族も出てきてにぎやかですからね。まあこの映画はたぶん100人いたら80人が映像を褒めてストーリーをけなすでしょうが、ラストで大佐をネイティリが親の形見の弓矢でやっつけるところや、最期主人公が空から落下した時に以前ネイティリに学んだことが役に立っているとこなど、娯楽大作のサガである「誰にでも理解できなければいけない」という枠組みの中できちんと伏線も張れていると思います。
ちなみに人間のエゴで自然を破壊する映画と言えば宮崎駿の「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」があると思いますが、僕は「もののけ姫」は観ていませんが「風の谷のナウシカ」はわざわざ映画館で観て、くそつまらなくて途中寝てたのを憶えています。「こんなに世間で名作と呼ばれている作品が面白くないわけがない。その時僕が子どもでバカだったからダメだったんだ。」と思って大人になってからもビデオを借りて観ましたが、やっぱり面白くなくて途中で観るのを止めました。やはり僕は幼い頃からナウシカの完璧な人間性や生き方をどうしても受け入れることができなかったんですね。それに比べたらこの映画は足の悪い主人公がアバターの身体ではしゃぐ気持ちも分かるし、ネイティリとの色恋沙汰もあるから主人公がナヴィ側に立つのもすごくよく分かりますしね。
評価(★×10で満点):★★★★★★★★
冒頭10分で滂沱の涙、必至です。
『ゲゲゲの女房』にハマっている私としては、「夫婦」というキーワードに弱い。
カールとエリーの無償の愛が静謐な画面いっぱいに溢れています。説明的な台詞や画面がなくても、夫婦が病める時も健やかなる時も、幸せな時も悲しい時も、互いを大切にし、支え合い、ふたりにしか築けない時間と空間を築いてきたことが伝わります。だからこそ、カールの伴侶を喪った絶望感が、痛いほどに迫ります。
しかし、本篇はここから。ふたりで叶えられなかった夢を叶えるために、思い出の詰まった家に風船をいっぱいつけて、カールじいさんの冒険が始まる。
空を飛ぶ冒険活劇、といえばやはり『天空の城ラピュタ』を思い出します。子どもの頃に味わったドキドキハラハラを超えるものはない、日本が誇るアニメ映画の中でも不朽の名作だと思いますが、このディズニー作品もどうしてなかなか、たいしたものです。
頑固な性格だけど、情にはもろいカールじいさん。お調子者で子どもらしい子どもだけど、実は少し複雑な家庭環境にあるラッセル、カールをご主人さまと慕う犬のダグ、ラッセルが可愛がる怪鳥のケビン、まるで桃太郎のような一行は、パラダイスの滝を目指します。
その後は冒険活劇らしく、御一行と悪役との戦い⇒大団円へと向かうわけですが、それはそれで迫力があり、そう来たか! な演出もあり、笑いありと楽しませてくれるのですが、どうも消化不良なままラストを迎えてしまいました。
それは悪役であるチャールズ・マンツの描き方なのですが。
『ラピュタ』のムスカは余韻を残す最期を遂げて、悪の華という印象を与えたのですが、どうもマンツは中途半端です。嘘つきよばわりのあげく冒険家協会から追い出され、ひとり幻の怪鳥を求めて飛行船で旅立ったあと、たくさんの犬に囲まれて不自由ない生活を送っていたとはいえ、怪鳥を探し続けたこの何十年は、ひたすらに孤独なものであったことでしょう。名誉挽回のためにケビンを生け捕りにしようとたくらむのも、その背景を考えれば無理のないことです。ケビンを思うカールやラッセルの気持ちから描かれているために、このあたりは完全になおざりです。さらに救いようのない決着には、肩すかしをくらったような気になりました。犬たちを大事にしていたし、根っからの悪人には見えませんでしたし。まあ、今『ラピュタ』を観たら、もしかしたらムスカに感情移入できるようになっているのかもしれませんが。
それ以外は、アニメ技術も声優も、ラストシーンのエピソードもすばらしかっただけに、ちょっと残念です。
女性なら、最初の10分で自分の身に照らし合わせて考えてしまうかもしれません。私がいなくなったら、うちの人どうなっちゃうんだろう。
そして最後には安心するのです。ま、なんとかやっていけるよね。でも写真のひとつくらい、肌身離さず持っておいてほしかったな。
評価:★★★★☆
~ヤスオーのシネマ坊主<第2部>~
去年見た「ウォーリー」と同じピクサーの映画ですね。僕は去年映画をあまり見てないんですが、その少ない中で一番良かったのが「ウォーリー」で、完璧としか言いようがない映画なので点数は満点でした。今回の映画は「ウォーリー」に比べると完成度は落ちます。前回見た「サマーウォーズ」よりも下だと思います。しかし僕はこの映画は感動したし、かなりの高評価ですね。★9にしときます。
ここまで高い点数をつけるのは最初の10分のカールとエリーとの出会い、結婚、エリーの死までの描写につきます。僕はここを見て今年初めて映画で泣きそうになりました。セリフは一切ないんですが、そんなものがなくても二人の愛情の深さ、幸せな日々、そしてエリーが死んだ後のカールの喪失感、空虚感が映像を見てるだけでぐわ~っと伝わってきます。開始10分の出来だけなら僕が今まで見てきた映画の中で一番良いんじゃないでしょうか。ペンキ塗りたての郵便ポストにカールが間違えて手形を付けてしまい、エリーも笑って自分の手形をつけるんですが、一人ぼっちになったカールがエリーの手形にちょいちょい手を合わせているところなんかは、もう本当に素晴らしいとしか言いようがない。時の移り変わりと二人の変わらない愛情を色々なネクタイを締めることの繰り返しで見せるところや、死ぬ間際病室のエリーの元に手紙のついた風船が届くが、エリーがそれを見ずにカールに手を伸ばして冒険の書を渡すところなんかも上手いなあと思いますね。「二人は仲良し夫婦でしたが子どもはいませんでした。」ではなく、婦人科のシーンをギラっと入れているところもごまかしがなく僕は好きです。人生というのは悲しみがあってこそ喜びがありますから。開始10分の出来がここまで良いんだから、カールじいさんが風船のついた家で二人の夢の場所へ飛んでいくところで終わってもいいぐらいの映画ですよ。
言い換えれば、この映画はその後はここ以上の盛り上がりがなく、尻すぼみの印象は否めないんですね。やはり開始10分が素晴らしい映画とラスト10分が素晴らしい映画を比べたら後者が評価されるのは仕方ないでしょう。カール達とマンス&犬軍団の戦いは見てて普通に面白いんですけど、この頃にはすでに「ああこの映画は子どもにも見てもらいたいから無理やり冒険物語にしとるなあ。まあ大手のピクサーの映画だから商業主義に走るのはしゃあないか。」と僕の心はすっかり冷めきっていました。子どものラッセルのキャラクター描写がベタすぎて失敗したような気がしますね。こんな良い意味で純粋で悪い意味でバカなガキは現実には絶対にいませんし、見ててかなりうっとうしいです。彼とカールの心の交流には少しも感動しませんでしたから。まだバグとの心の交流を描いた方がマシだったんじゃないでしょうか。僕は彼が大好きです。他の犬は群れで行動しているのに、彼だけはいつも一匹で行動しています。他の犬達の彼への接し方から考えて、おそらく彼は犬軍団の落ちこぼれでみんなにバカにされ相手にされてないんでしょう。だから同じく孤独なカールじいさんをご主人様と慕うんだろうなあと思います。彼をもうちょっとクローズアップしていれば、僕はこの映画に満点を付けたかもしれません。
あと、僕はこの映画は日本語吹替で観ましたが、やっぱりプロの声優は上手いですね。前作のサマーウォーズみたいに俳優の声優とは格段の差があります。
評価(★×10で満点):★★★★★★★★★
『たそがれ清兵衛』は未見で、『武士の一分』を先に観てしまった。山田洋次監督による藤沢周平時代劇の二作目にあたります。
舞台はおなじみ、架空の海坂藩。時は幕末、西洋風砲術を学ぶ片桐宗蔵は、回天の時運とは無縁のごとく友人や家族、女中のきえに囲まれ穏やかな日々を過ごす。剣術しか取り柄のないような宗蔵の心の安寧となるのが女中のきえ。お互い心を寄せながら、超えられない身分の壁に二度も離ればなれになってしまいます。
その恋を横糸に、縦糸を紡ぐのは、武士としての矜持。
禄はわずかで身なりといえば袴はよれよれ、月代はボーボー。しかし曲がったことは許せない、己の信念のためなら日中女を背負って街中を歩いても平気。それがサムライとしての誇りと考える宗蔵。脱獄した旧友を追手として斬らねばならなかった苦しみ。しかし相手を絶命させたのは皮肉にも鉄砲という近代的武器だった。幕末、斜陽の時代。誰よりも武士であろうとした男の、武士として下した最後の決断が、そのまま時代の決着であったのかもしれません。
ところどころ、山田洋次らしいユーモアをはさみながら、描くのは人間の心のぬくもり。誰もが愛すべき人物であり、不器用な宗蔵らしいプロポーズも、その想いを受け取るきえの純粋さも、それまでの場面の悲痛さを柔らかい布で拭い取るような優しさに包まれます。
永瀬正敏の殺陣は少し物足りなさもありましたが、いかにも武骨者の下級武士という風体が似合っていました。松たか子との立ち姿も、キムタクと檀れいに較べると親しみやすく、ふたりの恋を応援したくなるような気にさせられます。脇にいたるまでも丁寧に描かれていますが、とくに田中泯の存在感は圧倒的。『ハゲタカ』といい、『龍馬伝』といい、空気が一気に張り詰めるような緊張感を醸し出せるのはこの人ならではですね。
評価:★★★★☆(3.7)
日本の夏、といえば、
縁側、朝顔、高校野球・・・。
そんなイメージは、携帯電話や携帯ゲーム、インターネットがあたりまえになったこの社会でもなお不変。
先輩の夏希から「アルバイト(恋人のフリ)」を頼まれ、戦国時代から続くという長野の旧家にやってきた数学オタクの健二。そこは昔ながらの日本家屋、親戚はおよそ20人、取り仕切っているのは夏希の曾祖母の栄。核家族で育った健二はとまどいながらも新鮮な喜びを得る。←ここまで前時代的。
ここから近代的→世界で10億人以上の人々が集う仮想空間・OZ。もはや世界はOZを中心に回っていると言っても良い。ところが、何者かのしわざにより一夜にしてOZは大混乱に陥ってしまう。その犯人として挙げられていたのが健二だった。健二は陣内家の力を借りて、見えざる敵との戦いに挑む。
仮想空間で人々と交流しながら進んでいくゲームはもはや主流となりつつありますが、どーも苦手です。嵌っていくと抜け出せない怖さがあります。OZはもちろん架空のシステムで、それが実現されるとも思い難いですが、これはこれで便利で楽しそうです。それと背中合わせなのが、システム乗っ取りによる社会混乱。ハッキングによる犯罪は『ブラッディ・マンデイ』でも描かれているように、もはや珍しくないテーマです。それなのにグイグイ物語にひきこまれていくのは、前近代的要素と近代的要素がうまく行き来し、絡み合い、対比というよりは融合に近いかたちで描かれているところです。蚊帳と携帯電話。畳敷きの部屋とスパコン。花札とカジノ。レポート用紙とキーボード。いっけんちぐはぐな取り合わせが、不思議と一体感を醸し出しているのです。
旧家の描き方も面白かったです。女性は料理を作り台所に詰めている。男性はソファでビールを呑んでいる。しかし実権を握っているのは女で、男はひとこと言えば抑えつけられる。それでも合戦に行くのは男、後方で見守る女。しかし女も戦場に立つ。力を合わせて敵に向かう。
『時をかける少女』を匂わせる、高校生の純情な恋模様も、一服の涼としてきいていました。
ウチは大家族ではないけれど、花札、やっていましたね。好きでした。しかしルールをすべて忘れてしまいました。もう夏休みに家族全員がそろうことはないだろうけれど、ちょっと懐かしくもなりました。
評価:★★★★☆
~ヤスオーのシネマ坊主<第2部>~
この映画は出来としては素晴らしいです。脚本もしっかりしているし、絵もきれいです。ストーリーの運ばせ方、盛り上げ方がとても上手で、ここまで観てて純粋に面白いと思える映画はなかなかありません。世界の危機を一つの家族が救うというムチャな設定も、まあアニメなのでそれぐらいムチャな方が面白いです。俳優が声優をやっていること、エンディングの歌が山下達郎なことなども、幅広い人たちに観てもらうという点では、悪くないと思います(僕は俳優の声優は聞きとりにくくてイヤだし、エンディングは歌が始まって3秒で止めましたが)。さすが僕が満点をつけたアニメ「時をかける少女」の監督と脚本家ですね。この二人は才能があります。
ただ、この映画はどんなに文明が進歩しても、「人と人との繋がり」「家族の絆」といったものは変わらず大事なんだよ、ということを言いたいんでしょうけど、僕は逆に「家族の繋がりってほんまにうっとうしいなあ。主人公の少年もこんなうっとうしい親戚が多い女と結婚したら絶対後々後悔するぞ。」と思いましたからね。面白さという点ではこの映画は満点と言ってもいいですが、何かを得たりとか、感動したりとかは、まったくなかった。だからやっぱり僕にとってはこの映画はイマイチなんでしょうね。
まずこの映画の家族の輪の中心と言ってもいい栄というババアがうっとうしいです。僕は自分が何も世話になってなく、かといって他の人より秀でた能力もない人間に偉そうな態度をとられるのが一番嫌いな人間なので、まあ僕が主人公だったら一日目の晩で速攻帰っているでしょうね。このババアは一応社会がパニックになった時に各界の実力者のような人たちに電話で叱咤激励していますが、「お前は立場も責任もないからそりゃ言いたいこと言えるだろうよ。そもそもパニック状態の時は電話回線も負担がかかっているんだから、クライシスマネジメントについて何の知識もない素人のババアのオナニー電話なんか世の中の迷惑なだけだろ。」と実際に四日前に上司に危機管理対策の書類作成の仕事を押しつけられた僕は見てて嫌悪感しか持ちませんでした。
他の親戚どもも一人たりとも好きになれなかったですね。もちろん閉鎖的な田舎の大家族の嘘臭さや薄っぺらさに満ち満ちた人間関係もあるんですが、オッサンどもが警察官、消防士、自衛官、水道局員、医者、漁師、電気屋など、揃いも揃って地域社会と密接な関係のある職業に就いていて、それぞれが家族の緊急時と社会の緊急時が重なった時のバランス感覚を持っていることが逆にうっとうしかったですね。僕も地域社会と限りなく密接な関係のある職業に就いていますが、この映画ぐらいの非常事態なら、いくら社会がパニックになろうが仕事なんかうっちゃって家族を優先する自信があります。
評価(★×10で満点):★★★★★
『誰も知らない』の是枝裕和監督の作品です。
心を持ってしまった空気人形。性処理の代用品でしかなかった彼女は、心を持つことにより新しい世界を知る。水を、言葉を、労働を、おしゃれを、そして恋を。「心」にあふれる感情に満たされていく。
しかし実際、彼女を満たしているのは空気。
作中、彼女はしきりとくり返す。「わたしは、空気人形」
「人間になりたい」ではない。彼女は知っている、自分が決して人間にはなれないことを。これがこの映画の地盤をしっかり固めているために、充実していく「人形」と満たされない「人間」がコントラストとしてあぶり出されていきます。
空っぽの身体に息を吹き込めば甦る空気人形。しかし人間はそうもいかない。人間を満たすのは空気ではない、命の営みだ。心は空っぽのくせに、身体を形成しているのはゼイタクな物質だ。まるでごみごみした下町のように。いろんな人がいるように、いろんな物質でできている。そして欠けたものは補えない。甦ることは、ない。代用品は、ない。
あまり美しいとは言えない町並み、そこを歩くメイド服のペ・ドゥナ。アンバランスなのに不思議と溶けこむのは彼女がほんものの人形に見えたからでしょうか。序盤、かなり生々しい場面もありますが、彼女の無機的な肌の質感が不快指数を減少させてくれたので、最後まで観ることができました。恋する相手とのラブシーンも、そのものの持つ本来の意味を提示するような崇高な場面であったと思います。
脇を固める俳優も豪華ですが、質を損なうものではありませんでした。非常に完成度の高い、たんぽぽの綿毛のようなふわりと心をとおり過ぎていく、透明感のある作品でした。
評価:★★★★☆(3.8)
~ヤスオーのシネマ坊主<第2部>~
最近うんこみたいな邦画を2本立て続けに見て邦画アレルギーになりそうでしたが、今回の映画は良かったです。やはり僕は日本人なので、どうしても邦画の方が感情移入しやすいので、この映画や「少年メリケンサック」のようにそれなりに出来のいい邦画は、「ベンジャミン・バトン」や「スラムドッグ・ミリオネア」などのアカデミー賞レベルの洋画にけず劣らず面白いです。邦画の方が絶対数が少なくどうしてもうんこ映画に当たる危険性が高くなるのですが、こういういい映画もありますから、これからも邦画も観ていこうと思います。
まずこの映画の一番いいところは、ヒロインがラストで人形に戻らなかったところですかね。ここが一番胸を打つと思います。ここで人形に戻ったら、この映画はただのファンタジー映画で終わっていたでしょう。彼女の中の空気で飛んでいるでしょうタンポポの綿毛は、彼女の状態と対比した「生」への希望みたいなものなんでしょうか。この描写も素晴らしいと思いますね。彼女の空想のバースデイパーティも切なさに満ち溢れていて良かったです。終わり際のシーンばかり褒めていますが、途中はちょっと退屈でした。この映画は都会の心が満たされていない、つまり空気人形のような人間が次々に出てくるのですが、彼らは「バベル」や「クラッシュ」のように特に「人と人とはどこかで繋がっている」わけではなく羅列的に描かれています。絡み合わないのはそれはそれでいいんですけど、あまりにも人がたくさん出てくるので、「何だただ単にこの監督は尺を伸ばしたかっただけか。」とかちょっと変なこと考えてしまいだれてしまったんですね。
しかしレンタルビデオ屋で彼女がちょっとしたアクシデントで身体に穴が空いてしまい、好きな男に息を吹き込んでもらうシーンは良かったです。これはヒロインを演じたペ・ドゥナの演技のおかげですね。初めは好きな男に自分の人形というコンプレックスがあからさまになってしまった悲しさと、人形らしいとぼけた顔がいりまじった表情をしているんですが、それがだんだんとエロ恥ずかしい表情に変わっていきます。こんなに純粋無垢で美しいラブシーンはなかなか見ることが出来ません。僕はラブシーンは一番邪念が入りやすいのですが、このシーンは集中して見ることができました。この二人がベッドで空気を抜いたり息を入れたりするシーンも良かったですけどね。どうしてこの二人がこんなことを繰り返しするのか、彼らはこのコミュニケーションによって何を得ているのか、はちょっと僕の理解力では上手く説明できないです。ただ、人間というものはもちろん元々は実体としてありますから空っぽの空気人形ではないのですが、人と人との関係を通じた社会の中で空っぽの空気人形として存在するようになってしまい、しかしその空気を満たしてくれるのもやはり人なんだなと思いました。
まあラブシーンだけでなく全編を通してペ・ドゥナは頑張っていたと思いますよ。日本語がたどたどしいところ、脱ぎOKのところ、人形のようなスタイルなども含めて彼女は適役でしたね。逆に、前に「ネガティブハッピー~」でいい味を出していると褒めた板尾はこの映画ではダメでしたね。この役は難しいですから、イメージだけでなくもうちょっと演技力を重視して役者を選んだら良かったのではないでしょうか。
評価(★×10で満点):★★★★★★★★
主演女優賞候補…ペ・ドゥナ