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孤島にある精神病院。女性患者の失踪事件の捜査のため、連邦保安官のテディは相棒チャックとともに島へ向かう。
孤島、といえば嵐。定石通り大陸へ帰れなくなった二人。そして意味ありげな会話が飛び交い、テディのおぞましい過去も次第にあきらかとなっていく。
ナチス兵への大量銃殺。愛する妻の死。不意にテディを襲う偏頭痛。
空を覆う灰色の雲、頑丈な建物、白い服。無彩色だった島の世界が、時折鮮やかなものとなる。両手を濡らす血、燃えさかる炎、真夏の太陽のごとき黄色いドレス。それはテディの幻覚か。はたまた、逆も真なのか。
DVD本篇が始まる直前、視聴者に対しいくつかの心得が提示されます。ああこれは謎解きメインの娯楽作なのか、と鼻白みながら鑑賞していたら、「娯楽」という慰みとはかけ離れた結末になっていました。
人が人の尊厳を蹂躙する時。それは戦争であり、殺人であり、ネグレクトであり、己の過信でもある。テディの選択は「善人としての死」に値するだろうか。人は、誰かを犠牲にしなければ己の尊厳を保てない生きものだ。愛していたはずの妻をその手で殺害した罪から逃れるために妄想の世界に陥ったことが真実だったとすれば、果たしてそれは真に愛する者への行為に値するだろうか。何度もくり返す「愛してる」、それは狂気の世界に陥ってもなお残されていた正気なのかもしれないが、生きとどまっている彼自身のための贖罪に過ぎずもうこの世にいない妻へは届かない。結局人間は利己的な生き物なのだ。誰かをあたりまえのように踏み躙りながら生きている。「善人」として死ぬことを選んだテディの選択は、誰にでも平等に存在する利己的な一部分なのだろう。
日本だけのキャンペーンだったのかどうかはわかりませんが、なぜこの作品を謎解きものとして大々的にあおったのでしょうか。二重三重にはりめぐらされた真と偽のベールを剥いでいくこともまた映画の愉しみのひとつかもしれませんが、つまるところの「真犯人=オチ」がよくある手法であっただけに、そういう定義を抜きにしておけば純粋に鑑賞できたのにと思います。
評価:★★★★☆(3.8)
チェ・ゲバラという人物。名前だけは知っています。彼がどのように革命に生き、革命に散ったのかは知りません。『モーターサイクル・ダイアリーズ』で感銘を受けたとはいえ、結局その後彼の人生に対する知識を仕入れることはありませんでした。
しかし主役がベニチオ・デル・トロであること、最初から前後篇の作りで気合いが入っているらしいことから、もう一度ゲバラという人物の生きざまに触れてみることにしました。
革命。その言葉から想起するのは、劇的な展開です。派手な攻撃が仕掛けられるかもしれない。窮地から奇跡のような大逆転を起こすかもしれない。そして主人公は英雄として崇め奉られるだろう。しかし実際はどうであるか。革命が起きるまでにはその国家のさまざまな政治的、経済的、国際的背景があり、いくつかの事象が、そして人の思いが偶然に融合し、失敗をくり返し、交渉や謀略を重ね、幾多の血を流し、ようやくに成されるのだと思います。キューバ革命とて、その範疇を超えるものではなかったでしょう。
カメラは淡々と、戦闘の日々を追い、歴史に名を刻んだゲバラの姿を追い、彼を眺める世界の他者を追います。
ゲバラがなぜ革命に参加したのか。戦いの日々の中で、彼が何を思い、何を憂い、何を希求していたか。それを深く掘り下げることはなく、その運命の一日は訪れ、革命は成功します。ベニチオ・デル・トロはゲバラになりきっていました。しかし思い描いていたようなカリスマ性を発揮するでもなく、理想と現実の狭間で苦悩する人間臭さもなく、ただひたすらに冷静で誠実で芯を曲げない指揮官としてしか描かれていませんでした。最もそうでなければ、勝利を手に入れることはできなかったでしょうが。
己の無知を後悔しました。歴史の背景を知っていれば、展開についていけなくなることもなかったでしょう。ただ、知っていれば知っていたで、ドキュメンタリーを観ているような気持ちになったかもしれません。
ゲバラはアメリカに対し原爆投下の責任を問わない日本人に怒りを隠さなかったと言います。28歳という若さで母国でない国の革命に参加した青年の、脚色することなく丁寧に再現された壮絶な人生の一部分に触れても結局共鳴できなかったのは、その高潔で激烈な精神が、あまりにも今の自分とかけ離れているからなのでしょうか。
評価:★★★☆☆
ずいぶん昔のことになりますが、テレビで放送していた『RAMPO』という映画を観ました。
江戸川乱歩の作品を読んだことはありません。
本棚には全集が並んでいたのですが、背表紙の仮面のイラストが薄気味悪く、結局手に取りませんでした。
それでも、どういう作風なのかはなんとなくイメージとして持っています。
そしてこの『RAMPO』という映画、どちらの監督のものかは忘れてしまいましたが(ラストシーンから推測するに、おそらく奥山バージョンではないかと思われる)、そのイメージを損なわない、大正から昭和初期にかけての刹那主義的、退廃的な雰囲気を醸し出していました。そういえばこの作品ではじめて香川照之を観て、「うまい俳優だなあ」と感嘆したのを憶えています。
さてこの『K-20』ですが、怪人二十面相と明智小五郎探偵が登場するといっても、舞台はモダンな時代の東京ではありません。
平和条約によって第二次世界大戦は回避された1949年、19世紀より続く華族制度により貧富の差が甚だしい格差社会、そんな帝都の片隅でサーカスの曲芸を演じる遠藤平吉が主人公です。
ひょんなことから怪人二十面相の疑いをかけられた平吉。偶然出会った明智の婚約者・葉子、泥棒長屋の源治らとともに、容疑を晴らすため帝都を駆ける。
ファンタジーと分類しても良いでしょう。スパイダーマンのごとく糸を操る平吉、葉子の祖父が遺したテスラ装置、確かに江戸川乱歩の作品を踏襲すれば描けない世界観になっています。
CGを駆使した帝都の風景は壮大で、アクションも迫力あるものとなっています。また二十面相の正体に関しても、ミスリードを利用しつつ最後に種明かしという謎解きの一面もあり、二十面相が扮装するチョイ役キャストも豪華で、娯楽作として長い尺を飽きずに楽しめる作品でした。
惜しむらくは、金城武と仲村トオルという主要人物二名がミスキャストであったことでしょうか。金城武は『レッドクリフ』や『死神の精度』のような魅力がありませんでした。平凡な一般庶民を演じるには、やや浮世離れした本人の色気が邪魔しているように思います。仲村トオルはドラマでも何度か真犯人役を演じていましたが、どれも迫力が足りず消化不良でした。『チーム・バチスタ』の白鳥などは、まさに適役だと思うのですが。
松たか子はヒロインにしてはちょっと歳がいきすぎているように思いますが、はっちゃけお嬢というステレオタイプのヒロインを厭味なく、上手に演じていたと思います。國村隼・高島礼子の夫婦は『三丁目の夕日』的ナチュラルな美意識があり、良かったです。
でもやはり、私は『RAMPO』のほうが好きです。
評価:★★★★☆(3.2)
~ヤスオーのシネマ坊主<第2部>~
僕は小学校の時、江戸川乱歩をアホみたいに読んでいた時期があったのですが、あの不気味で倒錯的な世界観とはまったく違いましたね。唯一不気味だったのは金城武が警察に捕まった時に、金城武の向かいの牢屋にいた男だけです。でも、この映画の世界観も、これはこれで良く出来ているのではないでしょうか。ラピュタやスチームボーイみたいな感じですね。さすが「always 三丁目の夕日」と同じスタッフなだけあって時代をきちんとデザインしており、なおかつノスタルジックさもきちんと出せています。「20世紀少年」なんかよりよっぽど良いですね。セットにしろ衣装にしろ小物にしろ一つ一つにセンスを感じます。
ストーリーもまったくのオリジナルですが面白かったですね。橋を壊しただけでどうやって金城武は護送車から脱出できたのかなどごまかしているところも多々あるのですが、イラッとするほどのものでもなかったです。特に良かったところはアメリカのこのテの映画にありがちな恋愛要素を排除しているところではないでしょうか。もちろんあることはあるのですが、非常にアッサリしており、ラストの金城武が鳩を出して消えるシーンはとても好感が持てました。
ストーリー展開もテンポがいいから退屈さはないし、メリハリもきちっとあるので疲れもありませんでした。純粋に楽しめる映画としてはかなりの水準に達している映画ではないでしょうか。そりゃ「ダークナイト」などには劣りますが「スパイダーマン」よりは上でしょう。
ただ、これはこの映画の致命的な欠点なのですが、金城武と仲村トオルは本当に演技が下手ですね。金城武はセリフ回しが下手なのは仕方ないとしても数奇な運命をたどる平吉の苦悩や悲哀がまったく出せていませんでしたし、仲村トオルはセリフ回しが日本人のくせに下手なうえに、最後正体がわかった時点でもとても良い人に見えます。いくら娯楽映画とはいってもこれはまずいです。これなら國村準や小日向文世などの演技力のある役者を黒幕にした方がまだ良かったんじゃないでしょうか。
評価(★×10で満点)★★★★★★★
前知識のないまま鑑賞してしまったため、いきなりショッキングな場面から始まった時にはタイトルとのあまりのギャップに、違う番組を再生してしまったのかと思ったほどでした。
アダケル家に雇われた家政婦、イレーナ。しかし雇い主は知らない、彼女が前の家政婦と仲良くなって家の鍵を盗み侵入を試みたことを。そして家政婦を階段から突き落とし、まんまと後釜にもぐりこんだことを。初日怪我をさせてしまったことで嫌われたひとり娘のテアを巧みに手なずけ、生まれつき防衛本能の弱い彼女を荒い方法で鍛えようとしたことを。そして、隠された過去のことを。
極端に説明の少ない作品です。誰も何も語ることのないまま物語は展開し、観ている側はイレーナに起こるフラッシュバックの映像で幾つもの謎を推測しなければなりません。しかし、不思議と第三者の視点ではなく、いつの間にか素性の知れぬはずのイレーナの感情に寄り添い、彼女とともにはらはらしながらテアと級友の喧嘩の行く末を見守ったり、切ない思いとともにイチゴをついばんだり、そしてラストが近づくにつれあきらかになっていくあまりにも残酷すぎる過去のできごとに、現在の彼女が取ったひとつひとつの行動に隠された動機を知り胸をかきまわされる痛みをそこではじめて共有するのです。
謎解きの伏線らしい伏線もなく、むしろミスリードのような描写も散見されます。それが監督の狙いなのかどうかはわかりませんが、あとで知って鼻につくような置き石ではなく、すんなりと納得させられる自然な溶け込み方でした。あとで知ったのですが、ジュゼッペ・トルナトーレ監督は『ニューシネマパラダイス』や『海の上のピアニスト』など、観たことはないけれど私でも名前を知っているような名作を生みだした巨匠だとか。流石の技量といったところでしょうか。
素晴らしかったのは主役を演じた女優さんです。過去と現在、まったく異質の女性を演じていますが、別人に思えるほどの変化でした。過酷な国家事情、人間としての尊厳をこれ以上ないほどに蹂躙されてもなお、その心は失われない。土に根を張り、鉢の中で育ち続ける。ゴミ置き場に捨て置いた過去とともに削がれた表情の隙間からこぼれおちる母の愛。ドラマ『Mother』を思い起こすラストシーン。
心は枯れない。いつどんな時どんな状況であっても。
評価:★★★★☆
~ヤスオーのシネマ坊主<第2部>~
観ている間は意味がわからない所や疑問に思う所が多々あって、観終わった後しばらく考えてやっと疑問点が少しずつ繋がるように解決していき、そのなかで感動のようなものは確かにある映画です。しかしこれはハードな内容ですね。僕はこの映画をテンションの低い時に観てしまって、最初の1分観て映画のチョイスを間違えたと思いました。その後もエロと暴力のオンパレードです。タイトルからはもうちょっと叙情的な映画を想像していたのですが、全然違いました。しかしたぶん過激なシーンを抑えていたらこの映画は凡作になっていただろうなと思いますから、難しいところですね。
ただ、この映画は絶対女性が観るべき映画です。僕が女性なら、もうちょっと主人公に共感ができたと思いますし。主人公のテオに対する執着はまあ僕も何となく気持ちは分かるんですがやはり女性の方が理解できるでしょう。テオをぐるぐる巻きにして何回も突き倒すシーンなんかは僕にはただの虐待にしか見えず、子どもを手なづけたりしているのは昔自分をむちゃくちゃにした男の家庭を崩壊させるための芝居で、実はテオなんか全然好きじゃないから苛めていたという底の浅い解釈をしていたので、テオが男の子をボコボコにしているシーンはすごく気分が良かったですね。
ただ、主人公が自分の前の家政婦を階段から落とすところがいつまでも引っかかって、主人公の目的が分かろうが主人公が突き飛ばした家政婦に償いをしようが、「それでもアレはあかんやろ~」という思いは消えず、主人公のことは最後までイマイチ好きになれませんでした。しかしラストから考えるとそんな人間でも救いはあるというふうに読みとることもできるし、なかなか難しいですね。
ちなみにラストシーンは良いとしか言いようがないぐらい良いです。観終わって1週間以上経った今でも鮮明にその画面が浮かびます。さすが大御所の監督ですね。あと、主人公がゴミの山を掘って恋人を探す映像と主人公と恋人がイチャついている映像がちょいちょいフラッシュバックで挟まれているんですが、このへんの演出も実に上手でした。最後掘り返して引きの画になるところでうわ~っってなりますからね。ストーリー、演出、映像、音楽など色々含めて、誰が観ても、出来の悪い映画とは言わないでしょうね。
評価(★×10で満点)★★★★★★★★
『重力ピエロ』『ゴールデンスランバー』と同じ伊坂幸太郎原作の映画です。
2012年、地球に隕石が迫り、世界は滅亡の危機に瀕していた。誰もいなくなった街に流れるパンクロック『FISH STORY』。1975年、逆鱗という無名のバンドが作ったその作品が、その時どきにある人びとに影響をもたらし、37年後世界を救うことになる--という、一見おとぎ話のような、タイトルそのものが示す「FISH STORY(ホラ話)」のような物語です。
イントロダクションだけ聞くと、着想が奇想天外で非常に興味深く、さすが人気作家の思いつくことはすごいなあと感心するわけですが、
時間軸が少しずつずれた4つの物語が展開されていき、ラストにはそれがひとつに繋がる、
その繋がり方が途中で見えてしまったために、面白さが半減してしまいました。
エピソードひとつひとつの流れや構成、キャラクターの色付けも非常に良い出来なのに、イカニモと見せる伏線の作り方で謎解き要素のアクが薄くなり、ちょっと肩すかしをくらった感じになりました。
『重力』はミステリーよりも家族愛が強く印象づけられたし、『ゴールデン』も時間軸の使い方が秀逸で後味の良いラストになっていました。それらと較べると、どうしても見劣りしてしまいます。
キャストも少し魅力がありませんでした。伊藤淳史はやはりパンクロッカーには見えないし、高良健吾は最近注目の役者さんですがあまり目立ちませんでしたし、多部未華子も印象に残る役どころではないし、濱田岳も普通の学生さんだったし、大森南朋も立ち位置が中途半端。良かったのはアヤシさ満開の石丸謙二郎と鬱陶しさ100%の山中崇ですかね。後者は『闇金ウシジマ君』といいこんな役ばっかりなので、たまにCMで普通のお父さん役を観ると逆に違和感です。
評価:★★★★☆(3.2)
~ヤスオーのシネマ坊主<第2部>~
パズル的な構成の群像劇は僕の好みのはずなんですが、どうもこの映画は演出がイマイチで全体的にダラダラしているうえに途中でネタも分かるので、ラストのスッキリ感がなかったですね。群像劇なのに人物描写も浅く、登場人物に魅力がありませんし。この映画はバンド編だけは丁寧に描いているので、ラストの奇跡ももっと音楽に何か意味があり、この音楽が世界を救ったという説得力がきちんとあればもっと良い気分で観終われたと思うのですが、こんなんだったら普通に多部未華子が一人で救っただけに見えてしまうので、何も感動できません。
森山未來が多部未華子の命を救うこと、森山未來が正義の味方になるために親に身体を鍛えられていること、その親は父親が勇気を持って母親をレイプ魔から救ったから結婚できて森山未來を産んだこと、これらも全部奇跡といえば奇跡ですよ。ただ、これらの奇跡と音楽の繋がりもどうも納得させるものがなく、観ていて爽快感がありません。同じ一つの音楽をテーマにした作品で言えばちょっと前に見た「少年メリケンサック」の方が一つの曲とストーリーがバシッと繋がっていてずっと良かったです。
また、地球の滅亡を救うという話にしては、地球滅亡の悲愴感が全然出せていないことも感動がない原因でしょう。映像もちゃちかったです。人がいなくてゴミが散らかっているシーンを見せるだけではダメでしょう。レコード屋のやりとりもだるかっただけですね。バンド編は丁寧に描いていると言いましたが、こちらも丁寧なだけで特に面白かったわけではありません。僕は元より伊藤淳史という俳優の評価は非常に低いのですが、彼に魅力を感じないとバンド編は楽しめませんからね。今回も拙い演技と薄っぺらい役作りでした。薄っぺらい役作りと言えば大森南朋もそうでしたね。この人は演技が上手い印象があったのですが、今回は全然ダメでした。
ただ、世間の評価はそんなに低くないんですね。どうしてでしょうか。みんな自分の存在にも何か意味があるはずだと励まされていい気分になるのでしょうか。
評価(★×10で満点)★★★