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おのづから言はぬを慕ふ人やあるとやすらふほどに年の暮れぬる(西行)
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弓

 

ひさびさのキム・ギドク。

まだギ毒が強かった頃の、作品です。

海の上に浮かぶ一艘の船に暮らす老人と少女。船を釣り人に開放することで生計を立てている老人は、どこからか連れてきた少女が17歳になるのを心待ちにしていた。ふたりが結婚するはずであったその日を目前に、少女が釣り人の青年に恋をしたことで、穏やかだった日々は大きく揺らいでいく。

またまたなんとも、感想を言葉で言い表しにくい独特の愛です。

光源氏は幼い若紫を屋敷に連れてきて、一人前の姫君になるまで慈しみ育てその日を迎えた。あるいは『雪の断章』も、はからずして孤児の娘は保護者の青年と結ばれた。どちらも作者は女性だけれど、父のように兄のように敬い慕うひとの妻になることは、女性にとってはごく自然ななりゆきなのかもしれない。そして女を支配し独占したい男性にとっても、それは究極の理想なのかもしれない。

ただまあ光源氏も祐也さんも若くて出世頭で美青年だからさまになるのであって。

老人というのはどうも絵的に受け入れがたい。

しかもこの老人、多分に感情的である。

すぐ嫉妬するし、カレンダーの日付はごまかすし、いそいそ結婚式の衣装を買いそろえて鍵付きの戸棚に大事にしまう。ヤケになったら船の部品を壊す。その破片で怪我をしてしまい手当てしようとする少女の手も振り払って拗ねる。老いさらばえた風体のくせに、なんだか少年のように見えてしまうのだ。

はじめて恋を知りはじめて老人に反抗的な態度を見せた少女も、そんな老人の姿に心を揺さぶられてしまう。

強引でエゴイスティックなストーリー展開。なのに目が離せない。相変わらず主人公たちに言葉はない。その瞳と背景を彩る色彩がすべてを語る。

揺れる海面、濡れるつま先。揺れるブランコ、穴ぼこの仏様。しなる弓、突き刺さる矢。

波のような胡弓の楽。弓は絃の間を行き来して。

目がくらむばかりの思いで迎えるラストシーンはこちらまで言葉を失う。

愛とか、恋とか、性欲とか、変態とか。

五感で感じ取れないものを言葉というかたちある枠に嵌め込むことが愚かなのかもしれない。

ただ、胸にひたひたと迫る波の冷たさと激しく射抜かれた矢の先端の鋭さは、本物だ。

こういう愛も、存在するのだろう。

理解しがたいはずなのに、受け容れてしまう自分がいる。

それが、ギ毒に侵されている証拠。

評価:★★★★☆

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誰も守ってくれない

 ドラマ『誰も守れない』が放送された時から、ずっと観たいと思っていた作品です。

『誰も守れない』は被害者家族の保護という観点から描いていましたが、こちらは対照的に加害者家族の保護。

どちらも個人情報をネットに晒され、見も知らぬ赤の他人の集団から非難の嵐を受けるという共通項がありますが、世間の反感は加害者に対してのほうが強烈かもしれません。被害者は名前も顔写真も露わにされるというのに、加害者は未成年というだけで人権を守られる。実際、その矛盾に怒りを憶えたことは少なくありませんでした。しかし正論という名の暴言の数々を書き並べ次々と個人情報を暴露していくネット住民のやりようにも共感はできません。加害者の家族はあくまで家族であって加害者ではない。しかし彼らを被害者と呼ぶにもまた、抵抗が生まれる。矛盾した解決しない思いを抱えながら、今回の事件の害者家族に相対することとなります。

淡々と離婚・再婚手続きを始める担当者、言われる前にサインをし判を捺す両親のくだりには背筋が寒くなる思いでした。犯罪者家族という肩書は一生ついてまわるという事実は、東野圭吾『手紙』でも描かれていますが、事件直後の現実を受け止めきれない家族にも容赦なく攻撃の声は降り注ぎ、犯人が黙秘を貫く中母親は自殺をはかる。そしてそれすらも聴取の材料にしようとする警察。自分の娘と同じくらいの年齢の沙織を前に、事務的になりきれない勝浦。その勝浦にまで攻撃の手は伸びる。

矛盾は解決されるのだろうか。

その答えは3日間で導き出されるものではない。

沙織はこれからも世間と闘っていくのだろう。直貴のように。ゆるすことが人間にとって最も困難であり、ゆるされることが人間にとって至上の安楽であることは永遠に変わらない。勝浦はそれを知っているから、ゆるそうと努める過去の事件の被害者家族にゆるされることは望まない。沙織も勝浦の思いを汲み、同じ道を歩むことを決意する。しかし彼女には一縷の救いがある。それは兄が犯罪に至るまで苦悩していたことを知りながら目をそらしていたことに対する罪悪感。贖罪の意識は、生きていく力になりうるのではないだろうか。その「救い」を残したことに、創作的な都合を感じるものの、演じる志田未来の絶望と抵抗を宿す目力に惹き込まれ、彼女を案ずる勝浦に感情移入し、出すぎた行動に出るネット住民を心底軽蔑し、本庄夫妻の年月に癒されない思いに胸を突かれ、緊迫する場面でも飄々としている三島になぜかほっとし。

これからも勝浦の闘いを見守っていきたいと願います。三島はドラマの時ほど目立ってはいなかったけれど、このコンビは痛快で爽快。尾上先生も映画では勝浦との関係性が説明不足でしたが、テレビチックなキャラとはいえ色気の少ない作品中でのスパイスがきいていました。また続編ドラマ作ってくれないかなあ。

評価:★★★☆(3.8)

のだめカンタービレ 最終楽章 前編   のだめカンタービレ 最終楽章 後編

といっても、前編はテレビで放映した特別版なので、かなりカットされていた模様ですが・・・。

パリに留学したのだめと千秋。美しい風景と音楽に飾られて、おもしろかわいいふたりの恋模様が描かれます。

原作は未読ですが、音楽を絵あるいは字で表現するというのは、とても難しいことなのでは? と不思議に思います。その世界と縁がない身には、実際に曲を耳にしてこそ、その背景にある作曲者の思いや演奏家が傾ける情熱を肌で感じるのであって。この作品内においても、数々の名曲が登場しますが、オケにしろピアノにしろその都度感動と昂揚感を抱くことができます。音楽に疎くてものだめや千秋と一緒に音楽の世界を味わうことができるからヒットしているのであれば、この原作はスゴイ力を持っているのでしょうね。

初めて音楽と「向き合う」のだめ、初めて「追う」立場となった千秋、それぞれの苦悩の様子はイメージとはかけ離れていて、支え合いとか理解とか、普通の恋愛ドラマならあたりまえの感情の交錯がまるでないふたりながら、音楽という常人には触れることのできない深遠な世界で繋がっていることを改めて思う、一風変わった恋物語でした。

誰もが刮目する才能の持ち主でありながら、のだめの前に立ちはだかる幾つもの巨大な壁。音楽とは人類の偉大な発明で万人に平等な快楽を与えるものでありながら、実は閉鎖的で、扉を押しあける腕を時には拒絶したりもする。しかしそこに挑戦する者はあとを絶たない。扉の先にはきっと誰も知りえない世界が拓けているに違いないから。

音楽には縁がありません。でもオケは好き。合奏はやるのも聴くのも好き。その程度。それで満足。自分には扉まで届くことも近づくこともできないとわかっているから。ただそれに快楽を与えられるのみ。けれど、その権利を持つのだめがちょびっとうらやましかったりもする。

評価:★★★☆☆

プレシャス

 

人は、残酷だ。

誰かを簡単に傷つけておとしめて踏み躙る。

人は、弱い。

常にその足元に誰かの姿を探して安堵する。

人は、愚かだ。

起きている間にも夢を見て輝くはずの明日を待つ。

ハーレムに生まれ父親から性的虐待を受け母親からは恋人を奪った相手として憎まれ、貧困の中満足な教育も受けられず17歳にして二児の母となったプレシャス。

彼女は愛を知らない。父親に犯されながらささやかれる愛が愛ではないことは知っている。彼女の安らぎは想像の中だけにある。そこでは彼女はスポットライトの下で踊り歌い喝采を浴び男からは熱烈なキスを受ける。しかし現実は母から口汚く罵られこきつかわれ暴力を振るわれる毎日。太陽は厚い雲の上。プレシャスに光は決して降り注がない。

妊娠が判明したことにより学校から追い出され居場所を失ったプレシャスがようやく出会ったぬくもり。代替学校の教師、級友、産院の看護師、そして新しい命。ぼろぼろに傷ついた彼女の心は、それらによって少しずつ縫い合わされていく。次から次へと彼女を襲う、不幸と表現するにはあまりにも凄惨な事実に打ちのめされながらも、彼女は明日を向く。自分の、自分だけの道を歩く。

人は、弱い。

時には地面に這いつくばることもあるだろう。土に爪を立て泥を噛み涙をこらえ、上から嘲笑を浴びせられることもあるだろう。

「転ぶことは恥ではない。転んでも立ち上がらないことが恥なのだ」

プレシャスを観ていて、そんな言葉を思い出した。

そう自分に言い聞かせた時があった。プレシャスと同じ歳の頃だった。プレシャスに較べたらとるにたらない行き詰まりかもしれない。しかし彼女と同じように、夢を見た。いつか素敵な恋ができると思っていた。明日を信じた。自分を信じた。光ある明日は来なかった。それでも信じ続けた。

それは若さだった。若さゆえの強さだった。

母となったプレシャスの特別な意志ではない。10代の、誰にでも秘めるエネルギーが、プレシャスを強く前向きに見せたのだと思う。

今の私は若くない。転んでも立ち上がれるかどうかわからない。だからいつも、転ばない道を選ぼうとする。強くもなく弱くもない。輝かなくてもいい、中庸でつまらない今日と同じ明日を迎えることを願いながら床に着く。

落ち葉のごとく剥がれていった若さを惜しむことはない。それも人生の着地点だから。

過酷なハーレムの生活やオブラートなしに描かれる虐待の実態。しかし辛さよりも悲しみよりも、ただ人の残酷さや弱さや愚かさが身に沁みる。

それなのに、いとおしい。

それだから、人はいとおしい。

評価:★★★★☆

南極料理人

 

南極。氷点下54度。日本から14000キロ。シロクマもペンギンもウィルスすらいない極寒の地で一年間共同生活を送る男8人。

テレビもない。ネットもない。電話はたまーにほんの少しの時間だけ。本も漫画も在庫には限りがある。

そんな中、新鮮な娯楽を味わう方法といえば、やはり、

「食」

しかないと思うわけだ。

望まずして南極観測隊の食事担当となってしまった西村。機械的に辞令を交付した上司や地球儀で南極が見つからないと大笑いする妻と娘の反応に、いささか絶望感を漂わせつつ南極の地に降り立ったものの、仕事はきっちりこなします。妻のベチャッとしたから揚げにネチネチ文句をつけるだけあって、西村の料理の腕はなかなかのもの。しかしむさ苦しい男どもは限られた食材でどんなに豪華な料理を並べてもその都度「おいしい」と感動してくれるわけでもない。もくもくと洗顔しもくもくと朝食を食べもくもくと仕事をこなし時間になるとまたもくもくと食事をしてちょっと酒盛りして床につく、そんな生活がずーっと続く。

集団で生活すると最初は合宿気分で楽しいかもしれない。しかし性格も生活環境も異なる人間がいきなり集められて共同生活を送るとなると、なんらかの確執が起きるのはこれ必然。西村たち観測隊員も、半ば監禁状態の日々に乱調をきたしていく。そんな彼らを救ったのは西村の料理――と、いうのはよくある話。しかしこれは実際の話をモチーフにしているだけあって、そんなドラマチックな出来事は起こりません。立派な大人である彼らは、彼らなりに地道にルールを守り和を乱さぬよう努力して、過酷な観測生活を乗り越えます。西村も落ち込むことがあったものの、気を取り直して己の仕事を全うします。

南極というある種異次元の世界でも自分を失わない男たち。堺雅人はじめ、生瀬勝久、きたろう、豊原功輔たちのキャラクターがみな個性的でいきいきとしおり、淡々とした2時間もまったく飽きることなく、同じ時間を共有しているかのような感覚で鑑賞できました。

食育、という言葉もすっかり市民権を得ましたが、やはり生活において食事の時間は、いちばん大切だと思います。

家族であれ他人であれ、誰かと食事を共にすること。「いただきます」と「ごちそうさま」、「おいしい」(「まずい」もあるか)を共有すること。栄養バランス、見た目、ちょっとした遊び心。うーん、日常で徹底するには難しいですけれど。

観ている間、おにぎりが出ればおにぎりを、ラーメンが出ればラーメンを食べたくなって仕方ありませんでした。週に一回は食べたくなり、食べたくなったら食べられるラーメンが食べられないなんて・・・南極って、残酷。まあ、一生行くことはないでしょうけれど・・・。

評価:★★★★☆

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自己紹介:
ヤスオーと古都の片隅で暮らしています。プロ野球と連ドラ視聴の日々さまざま。
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