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白血病の姉のドナーとなるべく遺伝子操作により産まれた11歳の少女が、両親を訴えるという、衝撃的なオープニング。
が、舞台は法廷ではなく、主に家族の中で時間軸を移行しながら進んでいきます。
幼くして癌を患ったケイト。生まれた直後から数々の手術を受け、姉を生かしてきたアナ。ケイトの病のためにあまり手をかけられることなく思春期を迎えた長男のジェシー。看病のため弁護士のキャリアを捨てケイトにつききりの母サラ。妻を支える父ブライアン。
固い絆で結ばれていたはずの「家族」は、アナの訴訟によって揺らいでいきます。
でもそれはきっかけにすぎない。アナの苦痛は出生時から決められていたことで、ジェシーの悲しみに父も母も手をさしのべることはなく、ケイトすら血を吐くかわりに本心を飲み込んできた。きしみは最初から生じていた。誰もが目をそらしていただけで。
ただひとつ、ゆるぎないのは、「みんながみんなを愛している」こと。
臓器提供のために産まれてきたと知りながら、アナが文句ひとつ言わずケイトの世話をするのは、アナが姉を愛していたから。ケイトが妹を愛していたから。
ケイトが本当の気持ちを語らなかったのは、母の献身的なまでの愛を痛いほど感じていたから。恋人とダンスパーティに行く自分を微笑んで見送る父の愛を受け止めていたから。
法廷でジェシーがたまらずに真実を口にしてしまったのは、母に妹を責めてほしくなかったから。妹に我慢してほしくなかったから。
一方通行だったそれぞれの愛は、最後にひとつにつながって、家族の深い愛に包まれながら、ケイトは行きたかった場所へ旅立ち、そこで愛する家族を待ちます。
「命の誕生」に懐疑的なアナのモノローグからはじまるこの物語。
折しも自分の誕生日。ささやかなプレゼントとして映画館に入った私は、アナの誕生に、ケイトの生きざまに、サラの母性に心を馳せ、ラストにはそのひとつひとつの命の小さな輝きを胸にしっかりと刻み込み、自分が産まれてきた意味、そして生きていく理由を見つめなおすこととなりました。
アナを演じるのは、同じく家族をテーマにした『リトル・ミス・サンシャイン』でも鍵を握っていたブレスリンちゃん。大きくなりましたが、すべてを見はるかすような両の瞳の秀逸な演技はますます磨きがかかっています。
評価:★★★★☆
「3億円事件の犯人は女子高生だった」――なんとも、衝撃的なフレーズ。
犯行は白昼堂々と行われ、しかも犯人は見つからないまま時効を迎え、おまけに盗まれた札は1枚も使われていないという、いろんな想像力をかきたてる要素満載の未解決事件は、もちろん発生当時どころか公訴時効が成立した時もまだ生まれていなかった私でもよく知っています。
主人公の女子高生・中原みすずは作者と同姓同名。おそらく中原中也と金子みすずを合体させたペンネームなのでしょうが、彼女は他に作品を発表しておらず、まるで自伝であるかのような「犯人は私かもしれない」という前書きに興味をそそられます。
'60年代。新宿の路地裏にたむろする退廃的な若者たち。叔母の家に居候し孤独な生活を送っていたみすずは、生き別れになった兄を慕って訪れたジャズ喫茶で東大生の岸に出会う。仲間とは少し距離を置いて、会話に参加するでもなくひとり本を読み続ける岸に、みすずはいつしか惹かれていく。
おりしも学生運動が盛んになりつつある時代。権力で抑圧されることを拒否する岸は、ある計画をみすずに語る。はじめて誰かに必要とされたみすずは、何も聞かず何も疑わず、岸の提案に賛同する。それは、三億円を強奪する計画だった――。
主演の宮崎あおい。演技力には定評がありますが、この役も難なくこなしています。孤独を抱え語ることを嫌い、台詞も極端に少ないのですが、ふとした時に見せる感情の揺れ、とくに岸への想いはこちらの感情も揺さぶられるような見事な瞳の動きでした。
少しクオリティを落としているのが岸役の小出恵介ですね。この映画の時代における東大生というのは、ただのエリートではなく、現代の学生にはない深い鬱屈を背負っていたのだろうと思うのですが、七三分けなだけで現代のやや軽若者でした。『風が強く吹いている』でも主役の大学生を演じるようですが、そちらのほうがたぶん似合っていると思います。
他にも、みすずの兄やその仲間たちが登場します。どうしようもないエネルギーをケンカや芝居や学生運動にぶつけては失敗を重ね、行き場のない思いを権力への怒りに変えていこうとした当時の若者たちの姿が描かれます。
学園紛争とは何だったのか、今でも第三者の立場から探究され続けているにもかかわらず、当事者たちは口を閉ざしていることが少なくありません。結局、「あれは一種の集団ヒステリーであった」と過去を悔いるでも懐かしむでもなく歴史の教科書の一事象のように結論づけて終わりです。たとえば高野悦子を自殺に追い込んだもの、多くの学生の人生を狂わせたこと、さまざまな理由を見出そうとする干渉は彼らが自ら打った句点によって妨げられます。回答は永遠に語られることはないのでしょう。その源が、ある時期になれば誰しもが経験しうる「どうしようもないエネルギー」であったのであるならば。
岸はそのエネルギーを暴力には変えず、未曾有の現金強奪計画へぶつけようとした。
そしてそれは成功したかに見えた。
みすずは幸せだった。初恋の人に必要とされた。誉められた。同じ秘密を抱える共犯者となれた。ずっと一緒にいられると思った。
しかし、みすずの知らない世界で「権力」は彼らを抑圧していた。岸は突然消息を絶つ。
岸の使っていた部屋で、再び孤独の世界に戻ったみすず。心の拠りどころは岸の読んでいた本の山。しかしそれも救いにはならず、彼女も退廃的な学生のひとりに堕ちようとしていた。初恋の人の日記を読むまでは。
3億円事件はあくまで題材のひとつにすぎません。人が人を切実に想う気持ちは昭和も平成も同じ。初恋の切なさは、一生時効を迎えることはない。
「青春」という言葉が似合う'60年代。あの時代を知る人も知らない人も、同じ気持ちになれるのではないでしょうか。
評価:★★★☆☆
また公開初日に、松本信者のヤスオーに連れていかれてしまいましたがな。
前回は素人演技を逆手に取ったドキュメンタリー形式の作品でしたが、今回は主に密室空間のひとり芝居。松ちゃんの手腕が試されようというものです。もちろん、観る前から結果はわかってはいますけど。
さて、シンプルなタイトル「しんぼる」。かな表記にしたのは、生々しさを薄めるためなのでしょうか。でもそんなもん何の救いにもなっとらんわと言いたい。
今回はカンヌには持っていかないようですが、そりゃあね、仕方ありませんね。
ルーヴル展で神々しいプットーを目の当たりにした身には、あの演出はいただけません。はっきり言って、不愉快です。
「しんぼる」が、笑いのタネになるのはせいぜい小学生まででしょう。パンフレットで監督は小学生が口にする隠語を連呼していますが、そんなレベルでいい大人が笑えますか。
まあ、本当に笑いにしたかったのは密室内でのひとりドタバタなのでしょうが、小道具には監督独自のセンスを感じます。タイミングや配置などは、こだわったのだろうと思います。しかし、長い。90分のほとんどがこのひとりコントなのですが、いかんせん長い。映画作品として尺を保つためでしょうか。別に70分くらいでもよかったような気がしますが。
この映画にはもうひとつ世界があって、それは『バベル』のように一見密室とはなんのかかわりもなさそうでいて『バベル』とは大違いのかかわりがあることは観る前からわかりきっているスペインのプロレス会場。なぜプロレスなのか、いまいちよくわかりませんが、映画っぽくハンディカメラを使ってまったく違う世界観を作り上げています。私はプロレスにはなんの興味もなくて、試合を観たことも勿論ないわけですが、本物のプロレスっぽかったです、ハイ。この映画でいちばん盛り上がる場面なのではないでしょうか。ある効果が起きる前まではね。
そしてクライマックス。素晴らしいです。何がって、CGが。この技術は絶賛に値します。
――「彼」は「しんぼる」を足がかりにして世界を変える――
彼の変化した姿がある宗教の教祖を思い起こさせたのも癇に障りますが、なにより私がいちばん不愉快だったのは、上記の結論です。
世界を担い未来を作り上げていくのは命であり、命を生み出すのは「しんぼる」である。確かにそれは事実です。
しかしそこに、私は監督の傲慢を感じます。
「しんぼる」だけで命は生み出せず、世界を変えることはできません。イザナギとイザナミ、アダムとイヴ。世界が両性によって創造されてきたのは神話の時代から揺るがない大前提です。
受胎する側の優性を主張する気はありませんが、この結論において彼はその存在をまったく無視しています。結局、そういう思想なのではないですか。もうすぐ子どもが生まれるというのに、こんな作品を観て奥さんはどう思うのでしょうね。よけいなお世話ですけども。
評価:★★☆☆☆(1.5・・・内訳:CG1/プロレス0.5)
29世紀の地球。
人間はゴミの星と化した故郷を捨てて宇宙に避難し、残るはゴミ処理ロボットのウォーリーただひとり。
誰もいない地球で黙々と働き続ける彼の前にある日、巨大な宇宙船が着陸する。降り立ったのは最新ロボットのイヴ。その日から、ウォーリーの世界は転変する。
オープニングでいきなり提示される絶望的な未来の地球の姿は、環境問題、とか、未来への警鐘、とか、いろいろなメッセージがあるのかもしれませんが、それはあくまでウォーリーの孤独な姿を強調する要素でしかありません。
気の遠くなるような時間をひとり過ごしてきた彼が、突如として現れた「仲間」にひと目で恋に落ちてしまうのも無理からぬこと。
ウォーリーはアノ手コノ手で彼女の気を惹こうとしますが、イヴの興味はどうやら別にあった模様。
そして舞台は遥か宇宙へ。
ロボットですから、人間の言葉は単語程度。会話らしい会話もないのに、ウォーリーが恋に浮かれる様子や、おっちょこちょいな彼へのイヴの苛立ちがきちんと伝わる演出には目を瞠ります。
太陽電池と簡単な基盤で動くウォーリーはゴミに囲まれて暮らしているだけあって汚染物質に覆われ薄汚れています。一方最新型のイヴは空も飛べるし攻撃もできます。ウォーリーがただ飾っていただけのルービックキューブをいともたやすく完成させてしまうほどの高性能ぶり。その差は較ぶべくもありません。大金持ちでエリートでアクティブなお嬢様にちょっととろくさい使用人の息子が恋をするようなものです。
しかし恋のチカラを前に、身分は関係ありません。
純粋で一途なウォーリーに、いつしかイヴも心を開き、ついには手に手を取っての逃避行(主に守られ役のウォーリー)。無機質なフォルム同士のあたたかいココロの交流。ロボットに支配されていた人間たちもついにその足で立ち上がり、殺伐としたオープニングとは一転、最後にはディズニーらしい大団円が待っています。
手に取るように伝わるいきいきとした各キャラクター、SFなのに突拍子なくない物語展開、上質なラブストーリー、
不覚にも泣いてしまいました。
・・・が、
そんな感動をブチ壊しにするのが、アレです。
そりゃー、核戦争で人類が滅んでも生き残るとは言われています。
でも、ウォーリーの唯一の友達って言っても、アレはないでしょ。
映画では観たくないですよ。
しかも色もカタチも動きもリアルだし。なんの可愛げもありゃしません。
アレが出てくる場面は目を細めて、焦点を合わさないようにしていたのですが、
忘れた頃にやってきて、大失敗。
それさえなければ・・・。
評価:★★★★★(4.6)
『パンズ・ラビリンス』のギレルモ・デル・トロが製作に携わったダークファンタジーです。
孤児院で育ったラウラは、長じてから夫とともにその屋敷に再び孤児院を作ります。
彼女にはシモンという息子がいます。ただし、実子ではありません。しかしシモンはその事実を知らず、HIV陽性のために薬を飲んでいます。
病気のため友達がおらず「想像遊び」が大好きな息子のことを夫婦は深く愛していましたが、孤児院の披露パーティーのさなか、彼は屋敷の中から姿をくらましてしまいます。
行方不明となったシモンの生存は、持病のこともあり絶望的と見られていました。しかし諦めきれずに彼の姿を追い求め続けるラウラ・・・。
冒頭から提示されるたくさんのファクター。そのひとつひとつが作品後半の重要な鍵となります。伏線の張りめぐらしかたは見事でした。
子どもの想像力は無限。
私も空想ごっこが好きな子どもでした。そしてやはり、空想の中に存在する友達の話を家族に話していたそうです(まったく憶えていないが・・・)。
しかし今の私はシモンではなく、むしろラウラに同調してしまいます。
海よりも深い愛情を子どもに注ぐのは母と名乗る女であれば誰しもが同じこと。血の繋がりがあろうとなかろうと、シモンを想うラウラの気持ちは、痛いほど伝わります。父もまた子を愛していたでしょう。ですが孤児であり親の愛を受け継いでいないラウラが自己犠牲的なまでの愛をシモンに注げるのは、やはりそれが男よりも女の心に生まれつき深く根ざしているからなのだと思います。
霊視に頼る場面は、そこだけファンタジーの要素を欠いてしまうので少し興ざめしましたが、観方によってはそれもまた真実を突いている箇所であり、非常に緻密でかつ心情に訴える展開が多く、最後の真実が明らかになるくだりでは清冽な感動を憶えました。
賛否両論のラストは『パンズ・ラビリンス』でも使われた手法ですが、やはり、ハッピーエンドなのだと思いたい。
邦題どおり、母の愛は「永遠」に昇華したのです。
評価:★★★★☆