MENU | MENU | MENU | MENU | MENU | MENU |
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
いやまったく、どうして毎回毎回、松本人志の映画を見に行かなきゃいけなくなるのかというと、巧みに交換条件を出されるからに他ならず、決して能動的な行為ではないということを必死で訴えたくもなるような作品の仕上がりっぷりに、今回鑑賞前にコーヒーを飲んでしまい眠気を催すこともできず最後まで苦行を完遂してしまったことをつくづく後悔する夜でした。
松本人志監督作品、と銘打ってはいるものの、この作品の監督は松本人志ではなく、ある「100歳の大物監督」が作ったものです。と、映画の中で語られています。この顛末で、不愉快度を示す針ははねあがります。どうやらMらしい主人公(大森南朋)の表情が、CGによって恍惚にゆがむところですでに眉間にしわが寄っているので、それからもありとあらゆるSM行為がくり広げられていくわけですが、つねに唾棄したくなるほどの不快感に襲われるので、「どや! どんでん返しや! すごいやろ!」という制作陣の高笑いが聞こえてきそうなラストには、不快を通り越して哀れみさえ感じてしまいました。
モノを生み出す行為というのは、それが映画であれ、音楽であれ、絵画であれ、文章であれ、自分の思いがあって、それを表現したいメディアを通じて世間に発するわけですが、多少の制約はあるにせよ、つねにその中心に自我があるわけで、だからこそ作品の評価は自己への評価と直結し、それが否定的であることに対して反発心が生まれるのも無理はない話といえばそうですが、「この作品の価値を皆はわからない」のひとことで片づけ周囲からの声をシャットダウンして「外国の映画祭に出品する」「海外でリメイクされる」と作品の価値とは結びつかない情報を声高に叫んで「わからない」国内の鑑賞者を見下し、ましてそれを作品の中に投じて主張してしまうような手段は、創作者としてそれは逆にプライドを失った愚かな裸の王様的行動に他ならないのではないかと思うのです。
しかも処女作の『大日本人』に較べて、その制作陣の閉鎖的な感覚はどんどん色濃くなっているように思います。果たしてこの人(たち)は何を表現したいのか、どんな映画を作りたいのか、それとも映画を作って評価されたいのか、レビューの評価が高ければよいのか、海外の映画祭で賞を取れば満足するのか、表現者としての思いであるとか、信念であるとか、創作においていちばん大切なものをまったく感じ取れませんでした。つまりこの作品は、創作物としての評価をすることはできません。ただの公開自慰です。そんなことは仲間うちで、やれ大きいの速いのと称賛しあってればいいのです。
ま、映画としての感想を述べるなら、冒頭の富永愛の立ち居振る舞いは美しかったので、撮り方が良かったということですね。スーパーモデルの雰囲気と洗練されたコートの着こなしを、理解できたカメラマンであったということでしょう。あとは実力者と呼ばれる役者の無駄遣いです。片桐はいりに至ってはよくも我らのあんべちゃんを、と殺意さえ憶えました。
<ヤスオーのシネマ坊主>
上記の映画評論家もなかなかいいことを言っています。まあしかし「100歳の大物監督が作ったものです。」ということで不快感を示すのはどうかと思いますね。あちこちの映画レビューを見てもこの描き方を「逃げ」だということで批判するものが多いです。
しかし、その批判は浅いですね。たぶん松本監督はこの描き方が「逃げ」だということは気づいています。じゃあなぜそんなことをあえてしたのかというと、「おれは今までの映画にはないむちゃくちゃな映画をとっているんだぜ!だから汚いやり方だがこんな予防線を張っているんだぜ!」というアピールです。おそらく、「おれは映画が好きなわけでも、映画が撮りたいわけでもないが、普通に生きていったら今は映画を撮らざるをえない流れだから撮っているだけだ。しかし俺が撮るからにはむちゃくちゃな映画にならざるを得ないんだよ。」というようなことでしょう。これはもちろん今まで撮った3本の映画に対する世間の評価がイマイチなことに対する僻みもあります。この作り方なら評価が低くても「いや、俺は普通の映画を撮っているわけじゃないから、というかむしろ映画でもないから、映画という枠のなかで評価なんかされるわけがない。」と返せますから。
ただ、この映画はむちゃくちゃな映画ではありません。僕はそこを一番批判したいです。僕が今まで見た映画で「何だこりゃ?」と思った映画は、「マルホランド・ドライブ」「ドニー・ダーコ」「インランド・エンパイア」「メメント」「マグノリア」「デリカテッセン」「パルプ・フィクション」「12モンキーズ」「エターナル・サンシャイン」などですが、「R100」はこれらの映画のレベルには達していません。ストーリーがやや破天荒なだけで、監督の意図もわかりますし、これらの映画が持つ不可思議な余韻を味あわせてくれませんでした。
それに、「マルホランド・ドライブ」「ドニー・ダーコ」「マグノリア」「エターナル・サンシャイン」は僕の今まで見た映画のトップ50に入っているぐらい好きな映画です。まあ、僕が松本監督の映画をすべて見ているのも、こういう僕好みのむちゃくちゃな映画をいつか作ってくれる監督だと期待しているからでしょう。なぜこれらの映画が好きなのかを説明すると長くなるのでやめますが、「わけがわからない」=「見る人に好かれない」=「評価されない」という図式は間違えていると思います。これらの映画を見た後は、それぞれの映画を見た後でしか味わうことのできない後味を残しましたし、それをたぶん人は監督や作品の個性として評価してくれるのでしょう。
まあ、松本監督もすでに4作の作品を産み出していますが、最初の「大日本人」は少し個性があったと思いますが、残り3作はあまり個性を感じませんでした。「俺はむちゃくちゃな作品を作っているぜ!」とあまり自己主張ばかりせず、真にむちゃくちゃな作品とは何かを考えていってほしいと思います。
「普通」だと思っていた。自分も、自分を取り巻く環境も、過去も、未来も、すべてが「普通」だと信じて疑わなかった。住田と茶沢と同じ歳の頃だ。
もちろん、ほんとうに自分は「普通」に生きていたのかもしれない。
父親に死ねと言われたことはない。母親にひとり残して出ていかれたこともない。おこづかいをパチンコ代にとまきあげられたことも、ましてや自分を死なせるための絞首台を作られたこともない。
だが、「普通」であろうと思えば思うほど、教室の笑い声から遠ざかっていった。正論という名の偽善もはやりごとの雑談も、窓際の最後列からの風景はいつもうすっぺらく、違和感を抱かずにはいられなかった。
教室の一段高いところから見下しながら、大人はひとりひとりがかけがえのないたったひとつの花なのだと嘯く。 だが「普通」であることこそが生きていく道しるべと信じて疑わない、一段低い制服の胸には届かなかった。
教室を去って久しい。なにが「普通」であったのか、どう「普通」であろうとしたのか、今となってはもう思い出せない。
3.11によって、物語のラストは変えられたと聞く。
その日、世界も「普通」の姿を失ってしまった。
「普通」ではない世界で「普通」に生きようとする住田と茶沢。その息苦しい姿に、もしかしたら、あの教室にいた誰しもが「普通」であろうとしていたのかもしれないとふと思った。自分と同じように、違和感を憶えながらも作り笑いを貼りつけていたのかもしれない。「普通」であることこそが、楽な道だった。同じ制服に包まれながらそれぞれの「普通」を生きていた。
最上の選択であったはずの「普通」が単に自分の勝手なものさしだったと気づく時。
たったひとつの花は、その時に咲く。
道は続く。走る。狂気とナイフと価値観を投げ棄てて。住田、ガンバレ。そのエールは乾いた心にしみわたる。住田と茶沢は知ったのだ、うすっぺらい風景の向こうに広がるたったひとつの未来を。
ずっと前に、所ジョージ主演のドラマが放送されていました。テーマもさることながら、ひそかな所さんファンである私は、それを観よう、あるいは録画しようと思いつつ、すっかり忘れてしまいました。
そのまま、この有名な作品に触れずじまいだった十数年後、中居くん主演でリメイクが決まり、さらにその評判が芳しくないことも漏れ聞いていましたが、先日テレビで放送されていたので、観てみました。
恥ずかしながらこの原作はずっと実話だと思い込んでいました。実際は、減刑された元陸軍中尉の獄中手記を原型に創作されたものだそうですが、戦後からわずか十数年、まだその傷あとも癒え切らない時代に作られたこの物語には、戦争というものの理不尽さ、多くの者の人生を狂わせた怒り、死への絶望などが強く刻まれていたのだと思います。
それからさらに半世紀。
戦争を知らない者が戦争を知るには、それを知る人びとが込めたメッセージだけでは、もう足りえないのだとあらためて実感しました。
役作りで減量したという中居くん(つい中居くんと言ってしまいますが)の演技はすばらしかったです。家族愛にあふれた前半よりも、絞首刑を宣告されてからの両目にただよう絶望感が見事でした。かないもしない来世を語る慟哭、そして最期の言葉。ジャニーズやアイドルという枠を飛び越えて、いち俳優として評価されるべき存在であると思います。
チョイ役なのに理不尽な裁判に裁かれ戦犯という責を負わされた草なぎくんの静謐な台詞も諦念に溢れた背中も存在感がありましたが、やはりこれはどうしてもSMAPを想起させてしまいます。これは鶴瓶にも言えます。キャスティングが映画の質を落としているのは、非常に残念です。
仲間由紀恵も悪くないのですが、やはり中居くんと並ぶとふたりとも華がありすぎて、昭和の田舎で生活する平凡な夫婦には見えません。とくにこの作品では、ふたりのなれそめからはじまって家族愛や信頼といったものがクローズアップされていました。それ自体は最近の戦争ものにありがちなアプローチですし、面会のシーンはとても感動したのですが、そこから「私は貝になりたい」というタイトルに結びつくには、やはり当初の「戦争というものの理不尽さ、多くの者の人生を狂わせた怒り、死への絶望」という純然たるテーマを描くことが必要であっただろうと思います。あんなにも家族を愛し、愛され、最期まで写真を握りしめていた豊松と、すべてを捨てるかのように深い海に潜りたいという独白がかけ離れてしまったのが、最後の最後で残念でした。
戦争が終わって67年。
日本が世界と戦ったこと、その意義は敗戦によって大きくさまを変え、そして今また不安定な世界の中で、日本人はそのことについて命題をつきつけられています。
戦争映画を体育館でいくつも見せられて、また自発的に観るようにもなって、それは歳を経るごとに、あるいは世界情勢の変化のたびに、受け取りかたが変わってきました。
ただひとつ変わらずに思うのは、人と人とが殺し合う戦争はおそろしいということ。命の重みは誰もが平等であり、誰かが、あるいは国家が理不尽に奪うようなことは決してあってはならないということ。
ただこの呆けた願いも、世界中の子どもたちが手にする銃器の前では無力でしかないということ。
あさま山荘に人質を取って立てこもった連合赤軍と警察機動隊の緊迫感あふれる対峙と鉄球による破壊・突入の迫力ある生中継は、当時を生きた人間には忘れられない昭和の代名詞的事件であり、両親もその映像を目にすると必ず「あの時は」と語りだします。
その事件に複雑な背景があることは知識としてなんとなく知っているので、「あさま山荘事件を描いた映画」として観れば、物足りなさが残っただろうとは思います。しかし、リアルタイムにその中継を観て衝撃を受けていないこと、赤軍の思想や行動があまりにも今の人生とかけ離れていて現実として実感できずにいることから、この作品を純粋な娯楽として楽しむことができました。
同じ原田眞人監督作品である『クライマーズ・ハイ』が、日航機墜落事故そのものではなく、事故を追う新聞社と記者の激動の数夜を描いていたように、こちらも事件そのものではなく、犯人を捕らえ人質を無事救出することを目的とした警察内部の様相を軸に描かれています。
警察庁と長野県警との確執、板挟みで悩む指揮官、大事件にもかかわらずまとまらない指揮系統や準備不足、飛び交う怒号にタバコの煙。いっこうに進展しない包囲網に、肉体的にも精神的にも疲弊していく中、世論の代弁者を気取るマスコミの追及は収まらない。結末を知っているにもかかわらず、前半の気の抜けるBGMと気の抜ける会議の場面から一転、突入から逮捕への経緯は息を呑む緊張感がありました。
ただ原作者が警察庁側の人間であるという点から、ことさら長野県警幹部を無能視した描き方には偏りがあるのではとも感じます。
専門用語の多い台詞は聞き取りにくかったですが、逆にリアリティを強調していました。役者もユニークな面々を揃えており、最後にちらとしか映らない犯人役まで著名な俳優を配していたのには豪華さを感じます(だからこそ、同じキャストで犯人側の視点から籠城を描いたスピンオフがあっても面白いと思いました)。
それにしても、警察内部の確執や混乱は事実あったのでしょうが、事件から30年を経た現在、それらの問題は解消されているのかというと、日々報道を聞くにつけ答えは否だと感じます。長らく指名手配されていたオウム事件の実行犯が追われています。逮捕の日も近いでしょう。しかしなぜこんなにも時間がかかってしまうのか? また日々その数を増やしている未解決事件が決着を迎える日は来るのか? 内部を知らぬ守られているだけの市民はそのありさまに疑念を抱いてしまいます。