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おのづから言はぬを慕ふ人やあるとやすらふほどに年の暮れぬる(西行)
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ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日
予告編では「海の上でトラとふたりきりになってしまった少年の過酷なサバイバル! 227日間漂流して彼はどうなったのか? トラと友達になれたのか? それとも食べられてしまったのか?」という内容で、非常に興味をそそられました。つまりは冒険モノ、あるいは人間と動物の感動モノというイメージでなにげなく鑑賞を始めたのですが。
まったく違いました。
前半はパイの少年期からのあれこれ。親の訓示やさまざまな宗教の原理など、のちのち伏線として生きてくるであろうエピソードやセリフの数々が語られるのですが、最初のイメージとあまりにも異なっていたので、風邪をひいていたこともあり、半分寝ながら見ていました。
そしてようやく漂流が始まるのですが、ここからは主役を演じた無名の新人、スラージ・シャルマのひとり舞台。孤独への絶望、猛獣の牙におののく姿、無我夢中で生きようとする気迫、背景のない海の上であることを忘れてしまうほどの熱演でした。トラたちのCGも見事で、パイとともに恐怖に脅えながら時間が過ぎていきました。
パイが生きのびたことは物語の最初で示されます。単純な冒険ものであれば、パイの生死はきっとラストまで隠されるでしょう。そして、パイがパイ自身の物語を語ることで第三者の視点は失われ、一人称の話には真実性が欠落するというパラドックスが生まれます。愚かにもそれに気づくのはずっと後の話、メキシコの岸辺に流れついてトラと永遠の別れをする場面です。
トラはパイを振り返らず、森に消えていきました。
長い漂流生活の中で、パイとトラの間にはある種の絆が生まれていました。襲う者と襲われる者から、旅の同志へ。同じ海の上、星を眺め、宇宙をのぞみました。パイとトラは、同じものを見ていたのです。
同じ時間と空間を共有していたはずの旅の仲間にしては、あまりにもあっけない終わりかたです。ドラマとしては消化不良の展開で、ここでようやくひとつの疑問が生まれます。
この話は本当に本当なのか、と。
それは病床のパイに尋問した保険会社の調査員の当然なる疑問でもありました。そしてパイは、もうひとつの物語を話し始めます。それにはトラも謎の島も出てきません。あまりにも残酷で、しかしどちらにリアリティがあるかと言われれば後者を選ぶであろうと思われる話です。
そしてようやく、映画の前半の意図するところを感じるのです。
世界にはさまざまな宗教があり、神が存在します。
それぞれの神が説く世界のあり方、人間の生きかたもさまざまです。
ただ共通しているのは、そこに「救い」の導きがあること。だと、神を知らぬ自分は思います。
調査員は日本人でした。基本、日本の生活は宗教に根ざしていません。
海の上でパイは何度神の名を口にしたでしょうか。絶望の孤独の淵で幾度となく救いを求めたに違いない彼が信じたそれぞれの神の存在を、無宗教の日本人も感じたことでしょう。
神を見知らぬ日本人が、彼に「救い」の道を示した。何か、この設定に意味があるように思えてならないのです。
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テッド

下品だ下品だとは聞いていましたが、ここまで下品だとは思いませんでした。
公開当初、映画館には等身大テッド人形が飾られていたと聞きましたが、勘違いした初々しいカップルが入ってしまったらどうしましょう。

内気で弱気な少年ジョンが得た最初の友達。テディベアのぬいぐるみ。少年の願いは神様のもとへ届き、テッドには魂が与えられた。それだけならディズニー映画にもなりそうな心あたたまるストーリー。しかし本題はその27年後。主役は35歳になってもうだつのあがらないおっさん・ジョンと、下ネタ用語を連発しハッパを決めまくる不良クマ・テッド。
それでもふたりはあいもかわらず大の親友。昔観たテレビ番組のヒーローは今でもふたりの永遠の憧れ。雷におびえ心を奮い立たせる自作の歌を合唱。交際4年目、そろそろ結婚も視野に入れたいジョンの彼女ロリーはあきれ顔。

とにかく口を開けば放送禁止用語やら差別用語やら、アメリカのサブカルやら、聞くに堪えない理解もできないセリフが雨あられ。賛否両論分かれるところでしょうが、自分としてはそれなりに楽しめました。ふたりが敬愛してやまないフラッシュ・ゴードンは、日本でいえばウルトラマンか仮面ライダーといったところでしょうか。字幕で「くまモン」やら「ガチャピン」やら巨人の星やら、翻訳家の苦慮が透けて見えますが、実際は何と言っていたのだろうと気になります。

ジョンとテッドの友情は、きっと人間とテディベアだからこそ成り立つものではないかとも感じます。あれがいいトシした大の男ふたりの絵面であれば、ロリーは一夜にして愛想をつかして出ていくでしょう。テッドだからこそふたりの褥にもぐりこんできても許せるし、結婚後もどうやら同居しちゃうし、ベタなラストもつい涙を誘われてしまう。
もちろん、現実的にはジョンとテッドは共依存の関係で、お互いから独立しないといつまでたっても大人のフリした精神年齢8歳から成長できない。下ネタも悪いコトも差別も、子どもは無意識に楽しんでしまうもの。一緒にいることによって、本来なら成長するにつれて自然と自制していくべきそれらの愉悦から抜け出せない。それが「おしゃべりするぬいぐるみ」の非現実的ヴィジュアルによって、一気にほほえましい関係へと変化しているのはなかなか巧みなプロットだと感じました。
男は女よりも幼くて、本当はいつまでも永遠の少年でいたい生きものとはよく使われる言葉です。ガンプラやレトロゲームが売れ続け、ドラゴンボールが何度もリメイクされるのもそういった懐古趣味が先天的に男が女よりも強い遺伝子を持っているからなのでしょう。女の子がバービー人形やセーラームーンを大人になっても集めているという話はあまり聞かないし。

いつまでたってもお子ちゃまでバカばっかりな男どもと、やれやれとそれを見守る女たち。この作品は、男の理想を具現化したものなのかもしれません。
天使の分け前
この社会は、カネのある者だけが得をするようにできている。もちろん、カネを得るためにいろんな努力をして、才をめぐらせて、道を間違えぬよう注意深く生きてきたからこその結果なのかもしれない。だが、いったん道を間違えてしまうと、もう二度と後戻りできないシステムになっている。悔いても時間は戻らない。罪を犯した過去も、顔の傷も消すことはできない。
暴力行為により300時間の社会奉仕活動を命じられた青年ロビー。彼の子を出産した恋人とともに新たな人生を生きようと決意するも、社会はそれを認めてくれない。仕事もなく、被害者家族からは「クズ」と罵られ、家族ぐるみで敵対している恋人の父親からは邪魔者は追い出すとばかりに「金をやるからロンドンへ行け」と蔑まれる。
逃れようとしても逃れられない犯罪者のレッテルと、ともすればひきこまれかける暴力の渦。ロビーを引き戻してくれたのは、奉仕活動の指導者でウイスキー愛好家のハリーでした。
ハリーの導きにより、ウイスキーと出会い、そして光の降り注ぐ道へ歩むきっかけを得たロビー。そして一発大逆転をかけ、ロビーとその仲間は行動を起こします。
舞台はイギリス。国の情勢にはくわしくありませんが、日本も大差ありません。カネはカネのある場所にばかり寄り集まり、ワーキングプアだの格差社会だの消費増税だの、全国民の幸福に満たされた理想とはほど遠い国家となりつつあります。
幻のウイスキーに1.5億円も投げだしたのは、味の違いもわからぬアメリカ人。ロビーたちとはまるで住む世界の違う人間です。人生の「勝ち組」を「負け組」が出し抜く展開は、本来ならば痛快なはずなのですが、そこは日本人との意識の差なのでしょうか。これから生まれ変わって妻子を守っていこうという人間が、カネを得るため悪いことに手を染めてもいいのかな? とどうしてもひっかかってしまいました。
それでも、そのひっかかりが作品の質を損なっているわけではありません。自分ひとりの力ではどうすることもできない社会の仕組みに絶望するロビーの憂い。ハリーの慈愛。「負け組」たちのユーモアにあふれた会話。ドキドキハラハラの一大ミッション。「ああーーーっ!」と思わず声をあげてしまったまさかの決定的瞬間。人生の分岐点へ背中を押してくれた輝く友情。
「天使の分け前」とは、ウイスキーが樽の中で熟成される間、一年間で蒸発する約2%の減少分のこと。2%といえど、量が減ってしまうのは損だなあと思うところを、天使の分け前と表現するなんてとても素敵だと思いました。
人間も、日々の中でいろいろなものを失っていきます。時を重ねれば重ねるほど、得るものよりも失ったものを数えることが多くなりました。
損だなあ、と思うのか、天使の分け前、と思うのか。
そこで人生を照らす光の量も変わってくるのだろうと思います。
人生のわかれ道、ゆく先を決めたロビーの未来にもきっと、光があふれていることでしょう。
ブレス
ひさびさのキム・ギドク。
隠遁生活を経て『嘆きのピエタ』でヴェネチア金獅子賞を獲得する前の2007年に制作された作品です。
デビュー作『鰐』から『受取人不明』『悪い男』の攻撃的で峻烈な感性、『春夏秋冬そして春』『サマリア』の風と光の静かなる美をもって、監督の芸術性は昇華してしまったように感じます。
ギ毒をまだ残していた『弓』以降、『絶対の愛』そしてこの『ブレス』は、あいかわらず言葉ではなく目線や心で結ばれる倒錯的な男女の愛が描かれているものの、それまでのガツンと殴られるような暴力性はありませんでした。
夫の浮気によりそれまでの生活が狂い始めた平凡な主婦ヨン。刑務所で何度も自殺を図るチャン・ジン。面会室で共鳴を憶えたふたり。やがて交錯するその手、その息、その身体。
今までの作品と異なるのは、その常識から外れた愛を俯瞰する「目」が観客以外にもあったことです。
チャン・ジンに面会を乞うたヨンをなぜか刑務所内に通し、次には仕切り版のない部屋へ入れ、自由に触れ合うことを許した保安課長は、モニター越しに彼らの交流をじっと眺め続けます。
『悪い男』においても、みずからの手で苦界におとしめた女の情交をマジックミラー越しに見つめる男がいましたが、それとはまるで意味合いが異なります。世界観に巻き込まれて観客もみずからの常識を覆さざるをえなかったはずの愛への価値観は、時折保安課長と同じ視点に戻らされ面会室でくり広げられるふたりの様子を俯瞰してしまったために、最後まで元の指針を狂わせることはありませんでした。
保安課長を演じたのは監督自身。
監督もまた、みずからの作り上げてきた愛の世界を、俯瞰していたのでしょうか。
そして何を見、何を感じたのか。もしかしたらそこにはその後の隠遁生活に移るきっかけがあったのかもしれません。
また、それまでとは女性の描き方も変化しているように感じます。
女とは、無条件で男を包みこむ聖母でした。身体を受け容れることで男の弱さや傷や感情や生きざまを心で受け止め、それこそが絶対の愛の表現でした。しかし女には男だけでなくわが子もまた包みこむべき対象であり、すなわち母としての包容力も、女が生まれ持った性質であるようにも思います。一度は刑務所へ向かいかけたヨンが夫の制止に足を止めたのは、娘の姿を認めたからであり、その日ヨンは愛する男ではなく娘をその手に抱きました。最新作『嘆きのピエタ』でも描かれているのは母と息子の物語。ギドク監督における女性像は、サマリアびとの女からキリストを腕に抱く聖母マリアへかたちを変えていったのでしょうか。
時の流れは社会も人も変えていきます。
キム・ギドクの持つ毒も変質し、今回も心を麻痺させるには至りませんでした。
次なる毒は、身も心も侵してくれるでしょうか。

偽りなき者
舞台はデンマークの小さな町。妻子と別れ幼稚園で働くルーカスは、ある日親友テオの娘クララのついた小さな嘘が原因で変質者の烙印を押されてしまう。町じゅうの憎悪と敵意を向けられながらも、彼は無実を訴え続ける。

カンヌ国際映画祭で主演男優賞など3冠に輝いたデンマーク映画。ヨーロッパ映画というのはアクの強いものが多いですが、こちらも何とも言えない苦味を残しながらのエンディングでした。

原題は『狩り』。いい歳をした男たちが森で無邪気に遊びに興じるオープニングは、小さなコミュニティ内での親睦の深さをうかがわせます。それが一気に狩る者と狩られる者に変化する展開は、魔女狩りを想起させる残酷さでした。
両親の不仲に心を痛める幼いクララ。同様にまだ成長途上にすぎない兄は彼女に卑猥な写真を見せつける。家庭に居場所を見つけられないクララの拠り所であったのはいつも優しいルーカス。しかし彼に届けたハートマークをそっと返されたクララは、幼い反抗心で園長に訴えたのだった。写真を見せながら兄が口にしたことを、ルーカスが自分にした、と。
なぜクララが嘘をついたのか。それに至るまで、小さな心が周囲によっていかに傷つけられてきたか、静かに、しかしていねいに描かれます。自分のしたことで大好きなルーカスが追いつめられたことに心を痛めたクララは、あれは本当かどうかわからない、されていない、と訴えるものの、大人はもう耳を貸しません。子どもの言うことだからとぞんざいに扱わなかったのに、次は子どもだから記憶があいまいになる、と都合よく解釈するのです。しかしその勝手な大人たちによって、クララの家庭が絆を取り戻すのもまた、皮肉な描写でした。

クララの言葉に敏感に反応した園長。教育者として、子どもの声を真摯に受け止めるのは大切なことでしょう。しかしそれが本当に子どもを思うゆえだったのかは疑問です。離婚して幼稚園という女性的な場に転職してきた男性のルーカスを最初から異端視していなかっただろうか、そして彼が同僚のナディアと心を通わせたことで、さらなる偏見を生み出したのではなかろうか、と。ナディアは「英語で話したほうが良い?」と何度も訊かれていることから、おそらく外国人なのでしょう。職場恋愛は女性が多い職場であればあるほど、それが異端のふたりであればなおさら、周囲に敵を作りがちです。小さな町、そして幼稚園という職場、狭いコミュニティの抱えるいやらしさが巧みに練りこまれています。

狩りを愛する者が集う町。一度獲物に照準を合わせてしまえば、あとは引鉄を引くだけです。逃せばすなわち恥となる。ハンターたちは獲物=ルーカスを徹底的に狙い、追いつめます。愛する娘を信じるのは当然のこと、自分を侮蔑し迫害する親友の行動に傷つきながらも、子を持つ親としてルーカスは真摯に立ち向かう。ルーカスの愛する息子マルクスも、父親のために必死になって無実を訴えた。テオもまた、同じ親として心を動かされはじめていた。
狙いを定めたはずの相手が実は獲物ではなかった、と後から気づけば、それもまた恥となる。しかし間違いと認め銃口を降ろすこともまた、ハンターとしての勇気でしょう。テオは狩猟者としての誇りを持って、この「狩り」を終わらせることを決意します。

「獲物」でなくなったルーカスたちは、コミュニティに復帰します。その間の描写はありません。村八分の扱いを受けていたはずのルーカスとマルクス、そしてナディアはまるで家族のように、マルクスの初狩りのお祝いパーティの場へ現れます。一年前のことなどなかったかのように、歓迎を受けるルーカスたち。彼の心に去来するものは、何であったのか。
いじめにおいても、殴った者は忘れるが殴られた者は一生忘れないといいます。同様に、狩りをした者は忘れても狩られた者は忘れない。ルーカスの心を撃ち抜いた銃創が容易に癒えることはないでしょう。
ただ、居合わせたクララに向けられた優しいまなざしは、彼の寛容な慈愛の心でした。だからこそクララもそのさしのべられた腕に身をゆだね、一年前の罪と傷を浄化させるのです。

しかし、狩猟をしない者たちは、その関係性とは別の場所にいる。
女、または資格のない子どもは、最後まで獲物と信じたその相手を追い続ける。愛する者のために、あるいは自分のプライドのために。
狩りの途中、ルーカスを突如として襲った一発の銃弾。その正体は映りません。ルーカスがその顔を見たのかどうかも判然としないうち、画面は暗転しエンドロールが流れます。
「狩り」はまだ終わっていなかったのだ――。そのラストは観る者を戦慄させました。

誰かが傷つけば誰かが安堵する。誰かが幸せになれば誰かが不幸になる。
この世は狩る者と狩られる者でできている。だから誰もが獲物を探す。狩る者になろうと必死で銃を奪い合う。どんな世界の、どんなコミュニティにおいてもその原理は崩れない。
だが、狩られる者にもアイデンティティは存在する。それはその者が生きてきた証の刻まれた場所にこそある。どれほど迫害されても町を去ろうとはしない。それは彼のアイデンティティがこの町にあるからだ。人びとと暮らし、狩りと会合に興じ、愛すべきすべてに囲まれたこの町があればこそ彼の今が存在する。それが彼の救いでもあり、悲しみでもあった。
人はひとりでは生きていけない。だから、生きるとは困難だ。矮小な人間は苦しみ時には安息しながら、鎖された狭い世界でもがき続ける営みをくり返す。ずっと昔、狩りが命の営みであったその時から、きっとずっと同じなのだ。

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ヤスオーと古都の片隅で暮らしています。プロ野球と連ドラ視聴の日々さまざま。
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