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おのづから言はぬを慕ふ人やあるとやすらふほどに年の暮れぬる(西行)
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偽りなき者
舞台はデンマークの小さな町。妻子と別れ幼稚園で働くルーカスは、ある日親友テオの娘クララのついた小さな嘘が原因で変質者の烙印を押されてしまう。町じゅうの憎悪と敵意を向けられながらも、彼は無実を訴え続ける。

カンヌ国際映画祭で主演男優賞など3冠に輝いたデンマーク映画。ヨーロッパ映画というのはアクの強いものが多いですが、こちらも何とも言えない苦味を残しながらのエンディングでした。

原題は『狩り』。いい歳をした男たちが森で無邪気に遊びに興じるオープニングは、小さなコミュニティ内での親睦の深さをうかがわせます。それが一気に狩る者と狩られる者に変化する展開は、魔女狩りを想起させる残酷さでした。
両親の不仲に心を痛める幼いクララ。同様にまだ成長途上にすぎない兄は彼女に卑猥な写真を見せつける。家庭に居場所を見つけられないクララの拠り所であったのはいつも優しいルーカス。しかし彼に届けたハートマークをそっと返されたクララは、幼い反抗心で園長に訴えたのだった。写真を見せながら兄が口にしたことを、ルーカスが自分にした、と。
なぜクララが嘘をついたのか。それに至るまで、小さな心が周囲によっていかに傷つけられてきたか、静かに、しかしていねいに描かれます。自分のしたことで大好きなルーカスが追いつめられたことに心を痛めたクララは、あれは本当かどうかわからない、されていない、と訴えるものの、大人はもう耳を貸しません。子どもの言うことだからとぞんざいに扱わなかったのに、次は子どもだから記憶があいまいになる、と都合よく解釈するのです。しかしその勝手な大人たちによって、クララの家庭が絆を取り戻すのもまた、皮肉な描写でした。

クララの言葉に敏感に反応した園長。教育者として、子どもの声を真摯に受け止めるのは大切なことでしょう。しかしそれが本当に子どもを思うゆえだったのかは疑問です。離婚して幼稚園という女性的な場に転職してきた男性のルーカスを最初から異端視していなかっただろうか、そして彼が同僚のナディアと心を通わせたことで、さらなる偏見を生み出したのではなかろうか、と。ナディアは「英語で話したほうが良い?」と何度も訊かれていることから、おそらく外国人なのでしょう。職場恋愛は女性が多い職場であればあるほど、それが異端のふたりであればなおさら、周囲に敵を作りがちです。小さな町、そして幼稚園という職場、狭いコミュニティの抱えるいやらしさが巧みに練りこまれています。

狩りを愛する者が集う町。一度獲物に照準を合わせてしまえば、あとは引鉄を引くだけです。逃せばすなわち恥となる。ハンターたちは獲物=ルーカスを徹底的に狙い、追いつめます。愛する娘を信じるのは当然のこと、自分を侮蔑し迫害する親友の行動に傷つきながらも、子を持つ親としてルーカスは真摯に立ち向かう。ルーカスの愛する息子マルクスも、父親のために必死になって無実を訴えた。テオもまた、同じ親として心を動かされはじめていた。
狙いを定めたはずの相手が実は獲物ではなかった、と後から気づけば、それもまた恥となる。しかし間違いと認め銃口を降ろすこともまた、ハンターとしての勇気でしょう。テオは狩猟者としての誇りを持って、この「狩り」を終わらせることを決意します。

「獲物」でなくなったルーカスたちは、コミュニティに復帰します。その間の描写はありません。村八分の扱いを受けていたはずのルーカスとマルクス、そしてナディアはまるで家族のように、マルクスの初狩りのお祝いパーティの場へ現れます。一年前のことなどなかったかのように、歓迎を受けるルーカスたち。彼の心に去来するものは、何であったのか。
いじめにおいても、殴った者は忘れるが殴られた者は一生忘れないといいます。同様に、狩りをした者は忘れても狩られた者は忘れない。ルーカスの心を撃ち抜いた銃創が容易に癒えることはないでしょう。
ただ、居合わせたクララに向けられた優しいまなざしは、彼の寛容な慈愛の心でした。だからこそクララもそのさしのべられた腕に身をゆだね、一年前の罪と傷を浄化させるのです。

しかし、狩猟をしない者たちは、その関係性とは別の場所にいる。
女、または資格のない子どもは、最後まで獲物と信じたその相手を追い続ける。愛する者のために、あるいは自分のプライドのために。
狩りの途中、ルーカスを突如として襲った一発の銃弾。その正体は映りません。ルーカスがその顔を見たのかどうかも判然としないうち、画面は暗転しエンドロールが流れます。
「狩り」はまだ終わっていなかったのだ――。そのラストは観る者を戦慄させました。

誰かが傷つけば誰かが安堵する。誰かが幸せになれば誰かが不幸になる。
この世は狩る者と狩られる者でできている。だから誰もが獲物を探す。狩る者になろうと必死で銃を奪い合う。どんな世界の、どんなコミュニティにおいてもその原理は崩れない。
だが、狩られる者にもアイデンティティは存在する。それはその者が生きてきた証の刻まれた場所にこそある。どれほど迫害されても町を去ろうとはしない。それは彼のアイデンティティがこの町にあるからだ。人びとと暮らし、狩りと会合に興じ、愛すべきすべてに囲まれたこの町があればこそ彼の今が存在する。それが彼の救いでもあり、悲しみでもあった。
人はひとりでは生きていけない。だから、生きるとは困難だ。矮小な人間は苦しみ時には安息しながら、鎖された狭い世界でもがき続ける営みをくり返す。ずっと昔、狩りが命の営みであったその時から、きっとずっと同じなのだ。

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