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おのづから言はぬを慕ふ人やあるとやすらふほどに年の暮れぬる(西行)
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リンカーン


監督は『シンドラーのリスト』のスティーブン・スピルバーグ、主演は『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のダニエル・デイ=ルイス、と聞くだけで重厚な伝記作品の香りがしてきます。
リンカーン大統領といえば「人民の人民による人民のための政治」というゲティスバーグの演説が有名ですが、物語はその後から始まります。リンカーンの目下の苦悩は南北戦争の泥沼化に加えて、憲法修正第13条法案の成立。奴隷制度廃止に反対の民主党はもちろん、共和党の中にも黒人への選挙権付与を推進する急進派がいたり奴隷制廃止に消極的な議員がいたりとなかなか意思統一が進まない。法案を通せないまま戦争が終結すれば、奴隷解放宣言は実行力を持たないまま有名無実と化してしまう。南北戦争で息子を亡くした妻にはつらくあたられ、親の心知らぬ長男は従軍を希望するという。政治家として、人として、父親として、リンカーンの戦いの日々が描かれています。
この映画を見るに当たっては、予習が必要と聞いていました。少なくとも修正第13条の内容に関しては頭に入れておくべきだと。しかし時間がなくて素の頭のままで見始めてしまったのですが、そこまでわけがわからないということはありませんでした。
リンカーンといえば、小学生の頃に伝記を読んだ記憶があります。奴隷解放の父はアメリカのために尽力した偉大な政治家としてインプットされました。
ただこの作品はそのような「偉大なリンカーンの伝記物語」ではなく、修正第13条可決のためにロビイストを使ってさまざまなかけひきを行い、心理戦をしかけるという、手を汚すことも辞さない政治家としての一面が中心に描かれています。さらに驚いたのは、リンカーンのいう「平等」は「制限つきの平等」であり、トミー・リー・ジョーンズ演じる急進派のスティーブンス議員が主張する選挙権付与は却下します。もちろんその背景には政治的意図があるにせよ、差別に怒り未来を憂えて立ち上がった伝記の中のリンカーンは映画の中には出てきません。あくまで政治家として、アメリカの未来のために冷静に、今すべきことをひとつひとつ行っていったのです。それがゲティスバーグの演説であり、奴隷解放宣言であり、修正第13条法案の可決であった。この映画はそのリンカーン大統領の日々の最後の部分を切り取っており、だからこそ、リンカーンの胸の奥底にずっと抱いていたであろう純粋な正義感は極力排除されていたのでしょう。
つまり非常に感情移入しづらい作品です。法のもとの平等をあたりまえに享受している身としては、なぜ修正第13条にこだわるのか? なぜ選挙権を与えてはいけないのか? 南北戦争を終わらせないために犠牲を増やすことは許されるのか? さまざまな疑問が浮かんできます。
それは現代人に限ったことではないかもしれません。ひとつのことを成し遂げようとするには多くの障壁を乗り越えなければなりません。国を束ねる者としては、民の賛否の声も、そのひとつでしょう。
しかしリンカーンはもしかしたら、それらすべてを受け止める覚悟でこの大勝負に挑んでいたのかもしれません。戦地の惨状を前にした彼の横顔には、深い皺が刻まれていました。鎮魂と罪、悲哀と信念。戦場で散ったあまたの命のひとつひとつを、彼はその思いとともに皺に刻みつけたことでしょう。
時代は変わる。肌の色で差別する法律が闊歩する世ではなくなった。変わらないのは、求められるリーダーの資質。アメリカであろうと日本であろうと、いつの世も希求されるのはリンカーンのような男なのだと思います。
その瞳で、言葉で、背中でリンカーンを演じたダニエル・デイ=ルイス。3度目のオスカーを手にしましたが、見たこともないのにその立ち姿でなぜかリンカーンが甦ったと感じました。彼と対立するものの見事な立ち回りを演じたトミー・リー・ジョーンズ、ふたりの名優なくしては成り立たない作品です。とくにスティーブンスの最後に見せた愛のあり様は、アメリカの描くべき美しい未来でした。
根底に流れるのは、他者への平等な愛。
時代の流れを把握できなくても、配役のほとんどが白髪の老人でどっちが共和党でどっちが民主党かわからなくなっても、それはじゅうぶんに伝わりました。だからこそ、心にしみいる作品であったといえます。






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百田尚樹作の大ベストセラーを映画化した作品です。
原作は少し前に読んだのですが、あおり文句ほどには心に響きませんでした。
それは、私の中で、
「特攻隊を題材にしたもので、『THE WINDS OF GOD』を超える作品に出逢ったことがないし、出逢うわけがない」
という先入観があったからなのかもしれません。
特攻隊を題材にしたものについては、とかく賛否両論が巻き起こりがちです。売れれば売れるほど、それは世間に大きな反響を呼んでしまいます。
大ヒットとは決して言えないであろう『WINDS』であっても、「右とか左とか」あれこれ勝手に評価されると今井雅之さんはやるせなさを抱いていました。
戦争は絶対悪であるという現代的価値観において、特攻隊は過去の悲劇の象徴です。しかし日本人のDNAに刻み込まれた桜に象徴される滅びの美学により、時に特攻に散った若い命は感傷を催すひとつのファクターとなります。戦争に対しての怒りや憎悪以外の感情は、すわ「戦争の肯定」と結論づけられ、「右とか左とか」の論争が勝手に始まってしまうのです。
この物語は「愛する家族のために生きて帰る」ことを決意した主人公がなぜ特攻で死んでいったのか、その謎を彼を知る者の語りにより徐々に解き明かしていくという展開になっています。
144分という長丁場を一気に見せる構成力は、さすが『三丁目の夕日』の監督です。CG技術も見事です。また、原作の随所に見られた当時の軍部や戦略批判を極力削ったことで、宮部久蔵という男の生きざまがよりクローズアップされ、ひとりの人間の生と死、命のめぐりを感じることができました。「戦争」や「特攻隊」は舞台装置の一部に過ぎず、ただ家族を愛し、その時代を生きたひとりの男の人生を知る、この作品はそういう見かたで良いのではないかと思います。
ただ、肝心の「なぜ宮部は大石と機体を交換し、特攻による死を選んだのか」というその答えは、得られないままでした。当然です。当の宮部は死んでいるのですから。そこは、読み手(観客)の解釈にゆだねるということなのでしょう。
当時、多くの上官がみずから真っ先に特攻を志願したと言います。ただ優秀なパイロットを最後まで残す必要があった軍部により却下され、そのため技術的に未熟な若い士官たちが、多くの命を落とすこととなりました。次々若者たちが死んでいく現実に精神をさいなまれた宮部は、教官として責任を感じていたのかもしれないし、だからこそ宮部ははっきりとその目にあかるい未来を映していた大石という若者に、家族と日本の未来を託したのかもしれません。
宮部が今際のきわに見せた最後の微笑み。それは健太郎の思い描いた宮部の最期なのか、映画の中の真の宮部だったのかはわかりません。ただ元特攻隊員はこう語っています。「最後に天皇陛下万歳と叫んだ奴なんていない、みんな家族や愛する人の名を呼んで死んでいった」と。当時同じ状況を生きてきた人の言葉には重みがあります。宮部の脳裏には、きっと大石のもとへ託した写真の松乃と清子の笑顔が、いきいきと輝いていたのではなかろうか、と。
そして、『WINDS』のキンタのように、「家族を守るために死んでいく」決意もまた、きっと真実であるとも思うのです。
当時の思想はもちろん、現代的価値観とは相いれないものです。当時の視点で戦争を描き、”no more war”を叫ぶことは、もう難しくなってしまったのかもしれません。この作品が老若男女の多くの支持を得られたのは、現代の若者がはじめて戦争を知っていく過程に沿いながら、現代人があたりまえに抱く価値観を持ってかの時代を生きていくことの難しさを描いたことで、非常に感情移入しやすく、だからこそ戦争の悲劇とあたりまえに家族が寄り添える平和の尊さ、そして若者が未来を見すえるラストシーンに戦争を経て在る今を生きる日本人としての責務をより強く感じることができるからなのだと思います。
ただそういった描き方が主流になっていくことに、昭和が遠くなっていく、かの戦争が振り返る過去ではなく俯瞰する歴史の事象のひとつとなってしまっていくやるせなさもまた、同時に感じてしまいました。
『軍師官兵衛』でその演技力を知った岡田准一はこちらも熱演だったと思います。ドラマでも向井理が演じるようですが、宮部のイメージからはふたりともイケメンすぎますかね…。しかしこの作品において、宮部像はあくまで他人からしか語られないので、イメージを固めるのは少し難しかったでしょうか。個性の強い脇役たちに埋もれてしまっていたのが、少し残念です。

ファミリー・ツリー
舞台はハワイ・オアフ島。主人公マットは弁護士、遺産の土地の処遇で苦悩しているさなか、妻エリザベスがボート事故で意識不明に。母親の事故にショックを受け学校で問題を起こすようになった次女をもてあまし、寮にいる上の娘を呼び戻すもこちらは反抗期まっただ中で妹をはるかに凌駕する問題児。家族をかえりみず仕事にかまけてきた父親は、年ごろの娘ふたりと向き合わざるをえなくなる。しかも、長女アレックスから聞かされたのは妻が浮気していたという事実。
私が幼い頃は、海外旅行といえばハワイで新婚旅行ももちろんハワイという風潮でしたが、自分の頃には選択肢が増えていたので「今さらハワイ」という感覚でした。今後行く機会があるかどうかもわかりません。
しかし、現在でもハワイは根強い人気があるようです。我が家ではよくBS12チャンネル(野球中継)をかけているのですが、毎回CM中に『ハワイに恋して』という番宣を目にします。しかもずいぶん前から流れているような気がするので、長寿番組なのかもしれません。それほどハワイには放送してもしきれない魅力があるのでしょう。
その『ハワイに恋して』は実際見たことがないのですが、今回この作品を見て、「ハワイいいなあ、行ってみたいなあ」と思うようになりました。
主役はジョージ・クルーニー。ハリウッド界きっての激シブ色男ですが、この映画では冴えない父親を演じています。妻の浮気を知って動揺のあまり便所サンダルで全力疾走してしまう姿など、紙コップをゴミ箱に投げ入れる姿だけでハートを狙い撃ちされたあのCM(オデッセイの宣伝なのに車は背景)とは似ても似つきません。
マットにとってはまるで宇宙人のような娘たちと、長女の彼氏でこれまたマットの理解を超えるイマドキの若者シドを加えたチームは次女には悟られぬようにエリザベスの浮気相手を探りつつ、土地問題もからみ、本当ならば重い展開のはずなのですが、ハワイという舞台の醸し出すゆるやかな空気感が作品全体を包みこんでいます。ドラマチックな展開や大どんでん返しがあるわけでもなく、途中いくつかクスリと笑える場面もありつつ淡々と物語は進み、最後はホロリと泣かされます。
これはどこにでもあるかもしれないひとつの家族の物語。もちろん、浮気やら事故やら土地やら、非日常なファクターはありますが、家族といえども秘密があって、思いがけなく露見して、家族を思うからこそその解決に躍起になって。
妻は眠っているから真実を聞き出せない。いや、話すことができたとしてもほんとうのことは誰にもわからない。家族であっても別々の人間。最後のところはわかりあえない。
でも、家族だから。わからない部分もまるごと受け入れられる。言葉がなくてもわかりあえる。
みんな無言でテレビを見ながらアイスをわけあって、亡き母の足元にあったハワイアンキルトをわけあって。
音楽のやさしさが、心にしみるラストシーンです。


風立ちぬ
幾多の名作を産み出してきた巨匠・宮崎駿監督の最後(今のところ)の映画作品。
賛否両論の批評は耳にしていたので、たぶん、監督の今までやりたかったこと、やりたいこと、いろいろ全部ぶっこんできたひとりよがりなアニメなのだろうなあと思っていました。
結果的には間違いではなかったです。
が、私自身の感想は賛だけで、否は微々たるものでした。それも、主役の声優がいくらなんでも棒読みすぎて良作にふさわしくないというだけのことです。素晴らしい出来栄えでした。
ジブリらしい繊細な映像。風の音も草木の匂いも感じられそうな空気感。美しい音楽。すべてが設計しつくされた空間表現は見事です。『ナウシカ』から30年、宮崎駿監督の感覚は少しも鈍ってはいません。
飛行機が大好きな二郎少年の夢はパイロットからエンジニアへ。長じてその夢をかなえ、やがて零戦の設計者として歴史に名を残すことになった二郎。
この映画を見る我々は、零戦が何に使われた飛行機であったのかを知っています。そのうえ「戦争は悪である」とか「零戦は負の遺産」とか、振り返る歴史はいつもそういう視点であるために、つい設計者である二郎の行く末に何かの結論を求めたくなりがちです。
しかしこの物語はそれを語りません。
二郎は美しい飛行機を作りたかった。ただそれだけの思いで航空工学を学び、飛行機を作る会社に就職したら、たまたま戦争が起きて、性能のいい戦闘機を作ることを要求され、優秀なエンジニアとしてその要求にこたえた。それだけ。そしてたまたまその最中に恋もした。熱烈な恋をした。結婚した。愛する妻は病で死んだ。それだけ。
生きるためには生きがいが必要で、二郎にとっては時にそれが恋であったり仕事であったりしたけれど、その時々ですべてに対して真剣でした。一生懸命、己と向き合い、生きました。
二郎の作った零戦は結果的に多くの知らない誰かを殺すことになりましたが、そのことよりも零戦が一機も戻ってこなかったことに二郎は言及していました。戦争から遠く離れて戦争を悪と学ぶ現代人はそのことにひっかかるかもしれません。そして人殺しの道具となった零戦を作ったことを悔いる言葉のない二郎の態度さえ、否定的に感じてしまうかもしれません。
生きるとはひとりよがりなもの。いやむしろ、ひとりよがりでなければ生きていけない、それほど人生は他者から与えられる苦しみと悲しみに満ちています。
二郎は自分の生きたいように生き、好きな人と結ばれ夢を追いそれをかなえた。これほど羨ましい人生が他にあるでしょうか。そしてその己のみに従い他者にまどわされなかった生きざまを後世の誰かが評価することほど愚かしい行為はありません。
そんな羨ましい人生を生きる人はきっと現代にもいるでしょう。クリエイター・宮崎駿がそうなのかもしれませんし、主人公を演じた同じくクリエイターの庵野秀明もかもしれません。
そう考えると、宮崎駿が「最後の作品」と位置づけたのもうなずける気がします。


レ・ミゼラブル
監督にトム・フーバー、出演者にヒュー・ジャックマン、ラッセル・クロウ、アン・ハサウェイなどなど、今をときめく俳優陣を迎えて映画化されたミュージカルの傑作。
といっても原作は読んだことがありません。タイトルだけでなんだか胸が痛くなり、手に取ることはありませんでした。
というわけで、この鑑賞ではじめて、この有名なミュージカルが罪と罰だけでなく、宗教と革命をもテーマに孕んだ、非常に重厚な作品であることを知りました。
「歌」は時に、演説よりも強く心に響くことがありますが、この映画においても当然ながらその「歌」の数々が非常に重要なファクターとなっており(むしろセリフより歌の割合が多い)、葛藤や悲しみの絶唱に心が熱く震えました。
人が生きていくことは、なんと困難なのだろう。多くの罪を抱え、それでも正しくあろうとし、しかしいつもまっすぐでいられるとは限らない。時に心は黒く塗りつぶされてしまう。誰かを愛するがゆえに。正しいと信じる道が誰にでもまっすぐ見えるとは限らない。権力への怒り。任務への使命感。それは誰かにとっての善であり、誰かにとっての悪であり。
そしていつか迎える死出の道。その瞼を閉じる瞬間に、神の御手によりすべての罪は浄化され、人は救われて天へ旅立つ。
物語の根底にあるのは、神への信仰。
神を信じない者には少し入りこめない部分があるかもしれない。それでも信仰がいかに崇高であるか、生きてそして死ぬまでの時を意味あるものにできるか、一種のあこがれをもってジャン・バルジャンを見送りました。
ファンティーヌのコゼットへの愛。ジャン・バルジャンのファンティーヌ親娘への愛。マリウスのコゼットへの愛。さまざまな愛が描かれますが、いちばん強く印象に残ったのはマリウスを愛するエポニーヌでした。サマンサ・バークスはこの演技でかなり評価を上げたそうですが、本編通じてもっとも胸を打ったのが彼女の『オン・マイ・オウン』の絶唱でした。
愛するマリウスの愛する者は自分ではない。届かぬ想いを胸に秘め、女は歌う。愛する者のために身を投げ出し、愛する者の愛を護る。無償の愛、これもまた神が人に与えた恵みのひとつ。エポニーヌの美しい心は砲煙の中で輝き、空へと昇華していきました。
ただひとつ、ラッセル・クロウの歌唱力が名だたる演者たちの中で少しランクダウンしていたところが残念であったでしょうか。それでも彼の投げかけた命題は、彼の命尽きた後もなお永遠に神になれぬ愚かな人の心に突き刺さっていくのです。





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