百田尚樹作の大ベストセラーを映画化した作品です。
原作は少し前に読んだのですが、あおり文句ほどには心に響きませんでした。
それは、私の中で、
「特攻隊を題材にしたもので、『THE WINDS OF GOD』を超える作品に出逢ったことがないし、出逢うわけがない」
という先入観があったからなのかもしれません。
特攻隊を題材にしたものについては、とかく賛否両論が巻き起こりがちです。売れれば売れるほど、それは世間に大きな反響を呼んでしまいます。
大ヒットとは決して言えないであろう『WINDS』であっても、「右とか左とか」あれこれ勝手に評価されると今井雅之さんはやるせなさを抱いていました。
戦争は絶対悪であるという現代的価値観において、特攻隊は過去の悲劇の象徴です。しかし日本人のDNAに刻み込まれた桜に象徴される滅びの美学により、時に特攻に散った若い命は感傷を催すひとつのファクターとなります。戦争に対しての怒りや憎悪以外の感情は、すわ「戦争の肯定」と結論づけられ、「右とか左とか」の論争が勝手に始まってしまうのです。
この物語は「愛する家族のために生きて帰る」ことを決意した主人公がなぜ特攻で死んでいったのか、その謎を彼を知る者の語りにより徐々に解き明かしていくという展開になっています。
144分という長丁場を一気に見せる構成力は、さすが『三丁目の夕日』の監督です。CG技術も見事です。また、原作の随所に見られた当時の軍部や戦略批判を極力削ったことで、宮部久蔵という男の生きざまがよりクローズアップされ、ひとりの人間の生と死、命のめぐりを感じることができました。「戦争」や「特攻隊」は舞台装置の一部に過ぎず、ただ家族を愛し、その時代を生きたひとりの男の人生を知る、この作品はそういう見かたで良いのではないかと思います。
ただ、肝心の「なぜ宮部は大石と機体を交換し、特攻による死を選んだのか」というその答えは、得られないままでした。当然です。当の宮部は死んでいるのですから。そこは、読み手(観客)の解釈にゆだねるということなのでしょう。
当時、多くの上官がみずから真っ先に特攻を志願したと言います。ただ優秀なパイロットを最後まで残す必要があった軍部により却下され、そのため技術的に未熟な若い士官たちが、多くの命を落とすこととなりました。次々若者たちが死んでいく現実に精神をさいなまれた宮部は、教官として責任を感じていたのかもしれないし、だからこそ宮部ははっきりとその目にあかるい未来を映していた大石という若者に、家族と日本の未来を託したのかもしれません。
宮部が今際のきわに見せた最後の微笑み。それは健太郎の思い描いた宮部の最期なのか、映画の中の真の宮部だったのかはわかりません。ただ元特攻隊員はこう語っています。「最後に天皇陛下万歳と叫んだ奴なんていない、みんな家族や愛する人の名を呼んで死んでいった」と。当時同じ状況を生きてきた人の言葉には重みがあります。宮部の脳裏には、きっと大石のもとへ託した写真の松乃と清子の笑顔が、いきいきと輝いていたのではなかろうか、と。
そして、『WINDS』のキンタのように、「家族を守るために死んでいく」決意もまた、きっと真実であるとも思うのです。
当時の思想はもちろん、現代的価値観とは相いれないものです。当時の視点で戦争を描き、”no more war”を叫ぶことは、もう難しくなってしまったのかもしれません。この作品が老若男女の多くの支持を得られたのは、現代の若者がはじめて戦争を知っていく過程に沿いながら、現代人があたりまえに抱く価値観を持ってかの時代を生きていくことの難しさを描いたことで、非常に感情移入しやすく、だからこそ戦争の悲劇とあたりまえに家族が寄り添える平和の尊さ、そして若者が未来を見すえるラストシーンに戦争を経て在る今を生きる日本人としての責務をより強く感じることができるからなのだと思います。
ただそういった描き方が主流になっていくことに、昭和が遠くなっていく、かの戦争が振り返る過去ではなく俯瞰する歴史の事象のひとつとなってしまっていくやるせなさもまた、同時に感じてしまいました。
『軍師官兵衛』でその演技力を知った岡田准一はこちらも熱演だったと思います。ドラマでも向井理が演じるようですが、宮部のイメージからはふたりともイケメンすぎますかね…。しかしこの作品において、宮部像はあくまで他人からしか語られないので、イメージを固めるのは少し難しかったでしょうか。個性の強い脇役たちに埋もれてしまっていたのが、少し残念です。