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いやまったく、どうして毎回毎回、松本人志の映画を見に行かなきゃいけなくなるのかというと、巧みに交換条件を出されるからに他ならず、決して能動的な行為ではないということを必死で訴えたくもなるような作品の仕上がりっぷりに、今回鑑賞前にコーヒーを飲んでしまい眠気を催すこともできず最後まで苦行を完遂してしまったことをつくづく後悔する夜でした。
松本人志監督作品、と銘打ってはいるものの、この作品の監督は松本人志ではなく、ある「100歳の大物監督」が作ったものです。と、映画の中で語られています。この顛末で、不愉快度を示す針ははねあがります。どうやらMらしい主人公(大森南朋)の表情が、CGによって恍惚にゆがむところですでに眉間にしわが寄っているので、それからもありとあらゆるSM行為がくり広げられていくわけですが、つねに唾棄したくなるほどの不快感に襲われるので、「どや! どんでん返しや! すごいやろ!」という制作陣の高笑いが聞こえてきそうなラストには、不快を通り越して哀れみさえ感じてしまいました。
モノを生み出す行為というのは、それが映画であれ、音楽であれ、絵画であれ、文章であれ、自分の思いがあって、それを表現したいメディアを通じて世間に発するわけですが、多少の制約はあるにせよ、つねにその中心に自我があるわけで、だからこそ作品の評価は自己への評価と直結し、それが否定的であることに対して反発心が生まれるのも無理はない話といえばそうですが、「この作品の価値を皆はわからない」のひとことで片づけ周囲からの声をシャットダウンして「外国の映画祭に出品する」「海外でリメイクされる」と作品の価値とは結びつかない情報を声高に叫んで「わからない」国内の鑑賞者を見下し、ましてそれを作品の中に投じて主張してしまうような手段は、創作者としてそれは逆にプライドを失った愚かな裸の王様的行動に他ならないのではないかと思うのです。
しかも処女作の『大日本人』に較べて、その制作陣の閉鎖的な感覚はどんどん色濃くなっているように思います。果たしてこの人(たち)は何を表現したいのか、どんな映画を作りたいのか、それとも映画を作って評価されたいのか、レビューの評価が高ければよいのか、海外の映画祭で賞を取れば満足するのか、表現者としての思いであるとか、信念であるとか、創作においていちばん大切なものをまったく感じ取れませんでした。つまりこの作品は、創作物としての評価をすることはできません。ただの公開自慰です。そんなことは仲間うちで、やれ大きいの速いのと称賛しあってればいいのです。
ま、映画としての感想を述べるなら、冒頭の富永愛の立ち居振る舞いは美しかったので、撮り方が良かったということですね。スーパーモデルの雰囲気と洗練されたコートの着こなしを、理解できたカメラマンであったということでしょう。あとは実力者と呼ばれる役者の無駄遣いです。片桐はいりに至ってはよくも我らのあんべちゃんを、と殺意さえ憶えました。
<ヤスオーのシネマ坊主>
上記の映画評論家もなかなかいいことを言っています。まあしかし「100歳の大物監督が作ったものです。」ということで不快感を示すのはどうかと思いますね。あちこちの映画レビューを見てもこの描き方を「逃げ」だということで批判するものが多いです。
しかし、その批判は浅いですね。たぶん松本監督はこの描き方が「逃げ」だということは気づいています。じゃあなぜそんなことをあえてしたのかというと、「おれは今までの映画にはないむちゃくちゃな映画をとっているんだぜ!だから汚いやり方だがこんな予防線を張っているんだぜ!」というアピールです。おそらく、「おれは映画が好きなわけでも、映画が撮りたいわけでもないが、普通に生きていったら今は映画を撮らざるをえない流れだから撮っているだけだ。しかし俺が撮るからにはむちゃくちゃな映画にならざるを得ないんだよ。」というようなことでしょう。これはもちろん今まで撮った3本の映画に対する世間の評価がイマイチなことに対する僻みもあります。この作り方なら評価が低くても「いや、俺は普通の映画を撮っているわけじゃないから、というかむしろ映画でもないから、映画という枠のなかで評価なんかされるわけがない。」と返せますから。
ただ、この映画はむちゃくちゃな映画ではありません。僕はそこを一番批判したいです。僕が今まで見た映画で「何だこりゃ?」と思った映画は、「マルホランド・ドライブ」「ドニー・ダーコ」「インランド・エンパイア」「メメント」「マグノリア」「デリカテッセン」「パルプ・フィクション」「12モンキーズ」「エターナル・サンシャイン」などですが、「R100」はこれらの映画のレベルには達していません。ストーリーがやや破天荒なだけで、監督の意図もわかりますし、これらの映画が持つ不可思議な余韻を味あわせてくれませんでした。
それに、「マルホランド・ドライブ」「ドニー・ダーコ」「マグノリア」「エターナル・サンシャイン」は僕の今まで見た映画のトップ50に入っているぐらい好きな映画です。まあ、僕が松本監督の映画をすべて見ているのも、こういう僕好みのむちゃくちゃな映画をいつか作ってくれる監督だと期待しているからでしょう。なぜこれらの映画が好きなのかを説明すると長くなるのでやめますが、「わけがわからない」=「見る人に好かれない」=「評価されない」という図式は間違えていると思います。これらの映画を見た後は、それぞれの映画を見た後でしか味わうことのできない後味を残しましたし、それをたぶん人は監督や作品の個性として評価してくれるのでしょう。
まあ、松本監督もすでに4作の作品を産み出していますが、最初の「大日本人」は少し個性があったと思いますが、残り3作はあまり個性を感じませんでした。「俺はむちゃくちゃな作品を作っているぜ!」とあまり自己主張ばかりせず、真にむちゃくちゃな作品とは何かを考えていってほしいと思います。