『デスノート』
最初は違和感を抱いていた月とLの配役も、回を追うごとに気にならなくなっていました。月の「平凡」設定はいつの間にかどこやらへ行ってしまいましたが…ラストの炎に巻かれる狂気の臨終シーンは、誰もいない空間(リュークもレムもCGなので)に目を向けながらひとりで演じたのでしょうから、窪田正孝一世一代の演技でした。Lもどこか人間くささを残していて、感情移入しやすいキャラクターでした。圭太よりよっぽどいいわ。
唯一の不安材料が二重人格になったニア&メロだったのですが、小野寺ちゃんに休養中なにがあったのでしょうか。天真爛漫なニアと冷酷非道なメロのふたつの顔をきちんと演じ分けられていて、驚きました。顔も心もちふっくらしていましたし、安心しました。今後朝ドラのヒロインなども演じるようになるかもしれません。楽しみです。
かんじんのストーリーは、ノートのすりかえなどやや強引ながらわかりやすい設定で月を追いつめるかたちとなりました。Lのビデオメッセージもドラマのオチとしては良かったです。ミサや魅上はどうなったのか、という疑問はありますが…。
原作のラストは、月の命は尽きたもののキラを崇拝する者はなおも残っている、という、デスノートという罪なる存在を完全には否定しない描写で幕を閉じていました。もしかして続編もあるのだろうか、と考えたものですが、それが映画というメディアで、しかも6冊もノートをばらまくかたちになろうとは思いもしませんでした。公開は来年だそうですが、ストーリーにキャスト、そしてリュークやレムの登場はあるのかどうか、気になりますね。
『リスクの神様』
扱っている題材は非常に興味深いのに、登場人物のさまざまな背景、謎として残した過去の事件をうまく消化しきれなかったのかな、という気がします。実力派でかつ個性的な俳優ばかりを起用しているにもかかわらず人物造形が平凡で、もったいない感がありました。視聴率が伸び悩んだ原因もそこにあるのではないでしょうか。惜しい作品でした。
『まれ』
落ちない視聴率よりも、回を追うごとにネットで吹きすさぶ批判の嵐が話題になっていましたが…。
炎上商法という点では、『純と愛』ほどあざとさを感じなかったので、怒りはなかったですがね。それにしても「おい、これはわざとか? わざとなのか?」とツッコミまくりの後半戦でした。
横浜で修行中に圭太と結婚するまではまだ許せたのですが、女将業をするために能登に帰る…あたりからどうにも解せない展開に。女将がいないと大変! というわりに、まれがしているのは弥太郎の世話と掃除と漆器をガチャガチャいわせながらの袋詰め。それくらい、藍子でもできるのでは。そもそも塩づくりを手伝っていたはずの藍子、自分がやりたいことをどうたらこうたらと漆をはじめたわりに、他の職人のように本気で弟子入りしているようにも見えないし、YOUは何しに塗師屋へ?
しかも娘の友達である高志に片想いされてハグ。ゾッとしました。朝ドラですぞ? それとも、主な視聴者層である主婦が、こういう展開を望んでいたとでも? 高志の存在も謎でした。言葉を発さないという設定はこちらをイライラさせるだけでまったく生きていないし、大事な時だけ話すというわりにさほど大事でなさそうな時も話していましたし。マイナスが強すぎて、本業の歌の良さも相殺されてしまいました。
その高志の言葉を唯一理解できるという設定だったみのりも、有言不実行のまれと異なり「地道にこつこつ」農協で融資の鬼と称されるほど頼りにされていたにもかかわらず、結局仕事を辞めて専業主婦に落ち着き、パティシエと主婦を両立させている(らしい)まれの子の保育士がわりにされる当て馬キャラになってしまいました。そもそも腹に一物抱えていそうなみのりは、一子ほど存在感もなく、一徹とのエピソードも唐突感があって感情移入できず、いまいち立ち位置がよくわからないキャラでしたね。洋一郎については、ああいう報われない要員も必要だから良いとして。
一徹は最後はかっこよくなったので、一子とW田中をのぞけば唯一評価の上がったキャラでした。デイトレーダーという最初の職業と時代設定から、リーマンショックによる何かしらの影響と徹の生き方を重ねてくるのかなと思いきや、そこは見事にスルーでした。
邪推してみるに、脚本が途中から大幅な変更を求められたのではないか、と思うのです。「地道にこつこつ」とあれほどしつこくくり返していたまれが、最後には「しっぱいおっぱい」。綿密な手書きの人生計画書もどこへやら、開店直後に双子妊娠。なんだかよくわからない間に産休取って出産して復帰して、よくわからない間に何年も経って店は繁盛していて、よくわからない間にせかいいちとやらの夢を追い出して…おしまい。後半がとっちらかっている朝ドラは少なくないのですが、おそらく天下のNHKにはあれこれ制約が多く、いざ脚本を提出するとストップがかかったりするのではないでしょうか。あくまで想像ですが。
割を食ったとすれば、赤ちゃんの頃は天使のようにかわいらしかったのに、小学生になってからは縁側から首投げで放り出したくなるくらいかわいげがなくなった双子ちゃん。紺谷夫婦はこのように子どもの躾まで手が及ばないくらい商売繁盛で多忙なのです、と暗に言いたいのかどうかは知りませんが、あんたらふたりでひとりぶんの知性しか授かってこなかったのか? と思わず口に出してはいけないことを口走りそうになる、演じた子役たちにとってはかわいそうな描かれ方でした。
ブレブレキャラに仕立てあげられてしまったまれ役の土屋太鳳ちゃんは、朝ドラが終わる前からどんどん次の仕事を入れているようなので、今後の活躍を期待します。
『花燃ゆ』
文が奥御殿に上がるあたりまでは頑張って視聴したのですが…無理。もう無理。
無名の女性が主人公という設定は、教科書に書かれる歴史の中心以外の視点から自由に時代を描けることで物語に膨らみを持たせることができるはずなのに、なぜこの脚本は「歴史の中心」から視点をずらすことができないのでしょうか。歴史の中心には存在しなかったはずの文や小田村が、歴史の動くまさにその場へ「偶然にも」居合わせたり、歴史を動かす人物に「偶然にも」出会って影響を与えたりしては、「文のおかげ」「小田村あっての長州」になるという生ぬるい展開と、攘夷の狂気も御一新の熱気も志士たちのエネルギーもなにも伝わってこない歴史観の甘さに耐えられなくなりました。
オトナノジジョウにより長州ありきで作られた大河ドラマだというのに、ここまでフザケた作りにできるというのはある意味スゴイです。しかもまた脚本家をひとり増やすというのですから、迷走にもほどがあります。ひと味足りないと調味料を次々ぶっこんでいったら結局とんでもない味になった料理のようなものです。
再来年はまた女性が主役のようです。大河の主役は男女交互にしなければいけない制約でもあるのでしょうか。ネタもなくなってきているのでしょうが、奇をてらうより初心に返って、本来の大河の重厚な味を取り戻してほしいものです。
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