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実家にいた頃、家事は基本親まかせでした。
料理は食器を運んで下げるだけ、洗濯は干してたたむだけ、掃除は適当に掃除機をガーッと。猫のトイレは汚れた部分をちょちょいと取って嫌がるミーコに「我慢しなさい」。母の苦い顔は見て見ぬふり。
しかし嫌でもやらざるをえない時はやってくる。
今さら親に訊くのは恥ずかしいし、「ほれ見たことか」と爆弾を落とされるのは目に見えている。といって、『家事初心者のQ&A』なんて本を手にできる年齢ではない。救いだったのは、時代がネット社会であったこと。
でも、根っこは旧世代ですから、本音は本で調べたいところなのです。
こんな本があったなら--と思わずにはいられない。それが、定年後男やもめになってしまった参さんに愛妻おつうが残した『奥田家の記録』。
妻に先立たれなんとなく自堕落になってしまった参さんは、窮状を見かねた息子一家に引き取られる。妻の記述にしたがって料理や裁縫をいちから始め、専業主夫という新しい居場所を見つけた参さん。穏やかだけどしっかり者の嫁や虫好きでちょっと変わった孫と絆を深めたり、息子に片想いしていた女性と出逢ったりしていくうち、2巻ではいつの間にかチョコレートケーキまで作れるようになっている。
ゆるやかに移りゆく季節。穏やかな夕暮れと晴れた朝の光。時に雨。濡れた傘。長い髪。思い出の場所。
「じじい」という頑固で自尊心の強い不愉快な主人公が、こうの史代の筆によってまるで魔法にかけられたかのようにいつの間にか魅力的な愛すべきひとりの人間に見えてくるから、不思議です。
『長い道』のあとがきで、主人公のダメ亭主荘介の良いところはすべて自分の夫のものだ、と作者は書いていました。だとしたら、この参さんのモデルももしかしたら、未来の作者の夫なのかもしれません。どちらもダメなところはあるけれど、根本的にはいとしい人間です。そして読んでいる私までも、荘介や参さんが自分の夫の姿に見えてくるから、さらに不思議です。家事のできないところまで一緒です。
私はおつうさんのようにデキた嫁ではありませんけども・・・将来のために記録しておくべきなのでしょうか・・・。
こうの作品の楽しみはカバーを取った裏にもあります。今回も楽しい仕掛けが。最初は気づかず、秘密を知った時には全部の作品のカバーをはいでしまいました。
ホント、いい歳こいて少女漫画ってのもどうかとは思いますけど・・・。
やめられないんですよね。これが。
高校生の時『BASARA』の出ていた分を一気読みし、続刊はまだかまだかと待ちわびて、最終巻には滂沱の涙。何回も何回も読み返しました。たまに逆から読み返したり(漫画ではよくやります、気づかなかった伏線に驚いたりします、歴史もこうして学ぶと面白い)。うかつにも実家に置いてきてしまいいつの間にか捨てられてしまいましたが・・・。
その作者・田村由美の新作。と、いってももう16巻まで出ていました。そろそろ終わりかしらと思って漫画喫茶に2日通って読み詰めましたが、ぜんっぜん終わっていなかった・・・。
舞台の全容はしばらく伏せられます。前作の主人公が男装して部隊を率い世界を救う少女だったのに対し、今回はいじめられ体質の気弱な女の子が主人公。言いたいことが言えない、うつむいてばかりで人の目を見て話せない、男の子にはじめてやさしくされて好意を持ってしまう。それでも少しずつ、登場するたびに成長を遂げている。ちょっと、共感できます。
もちろん更紗ばりのアクティブなダブルヒロインも存在します。もちろん強いといってもそこはまだ少女、時には心弱さも見せます。離れ離れになった恋人を想い、でも孤独につぶされそうになり身近にいる異性に心惹かれ、それでも甘えてはいけないと自制する・・・。わかります、わかるわけないんだけどよくわかります。
田村作品に共通しているのは「性善説」。根っからの悪人というのが登場しないのです。一見悪人でも、実は、という一面を必ず見せる。普通なら鼻につきそうですが、なぜか素直に全部受け入れてしまう。作者の主張や展開のバックボーンがしっかりしているからなのでしょう。
物語がどういう局面に向かうのか、まったく見当がつきません。ラストの予想もできません。恋人同士は結ばれるのか、想いが届く日は来るのか。それとも、まったく新しい関係が築き上げられてしまうのか。
ああ~、完結してから読めばよかったああ~。
走る、という行為はとても単純で動物的で、
ゆえに、あまりにも簡単に生来の能力によって分類されてしまいます。
つまり、速い者と遅い者。
圧倒的後者だった私は、マラソンの前日には毎晩ひとりで雨乞いの儀式を行っていましたし、
唯一運動の中で得意だった水泳を中学でやめたのも、「水泳部は冬場に走らされる」という理由でした。
走る、という行為ほど、才能がモノを言う競技はないと思っています。
とことん運動オンチの私でも、練習すれば個人メドレーを泳げるようになりましたし、
バレーのサーブも何十本も打っていれば、相手コートに入るようになります。
でも、毎日グラウンドを回っていたって速く走れるようには、なりません。
バテずに走りきれる体力はついたかもしれません。でもタイムは、どうやったって、クラスの俊足軍団には追いつけないのです。
竹青荘の住人、そのほとんどが長距離素人である十人が、箱根駅伝を目指す----。
野球素人が甲子園をめざす、バスケ素人がインターハイに出場する、漫画にはよく使われる手法ですが、「またかよ」と思いつつ、最後にはやっぱり泣かされてしまいます。
で、この本にも、「やっぱりな」と思いつつ、泣かされました。
春と夏は甲子園、秋は日本シリーズで冬は箱根。
お正月には欠かせない初感動です。
しかし私は1区から10区まで、通して観たことがありません。
お正月とはいえ、やはり何時間もテレビに張りつくわけにはいかないんですよね・・・。
で、観戦のほとんどが山登りと9区・10区なわけですが。
この物語によって初めて、私は箱根のスタートからゴールまでランナーと並走することができました。
10人いれば10人の、さまざまな走りがあります。
その姿に心を揺さぶられてしまうのは、その走る、という単純な行為はランナーのそのものの生きざまだからです。
筋肉を躍動させて力強く繰り出すストライド、一歩進むごとに彼の人生はその道を拓き、確かな足あとを刻んでいきます。
ハイジに誘われて、というかだまされて箱根を走ることになってしまった竹青荘の住人たちも、その人生を「走る」ことによってみずからの足で作り上げていきます。
悩み、想い、後悔、喜び、
彼らの走った11時間17分31秒は、尊い青春の美しさとして箱根路に刻まれました。
『この世界の片隅に』の余韻も冷めやらぬまま、本屋で衝動買いしてしまいました。
すっかりハマってしまった、こうのワールド。
『長い道』
カイショなしの荘介と、ちょっと天然の道の、おかしな夫婦の物語。
なにしろこのふたり、父親同士が酔っ払って取り付けた縁談で結婚したのです。
女好きで仕事も長続きしない荘介にとって、道はただの家政婦。でも道は文句ひとつ言わずかいがいしく働き、いつもにこにこしています。
なのに荘介は、そんな良妻を質屋に入れようとしたり、道のバイト先の店長が道を海に誘ったと知るや金を巻き上げに行ったり、いや本当にアクドイ男です。これに較べたらウチの宿六のほうが1000倍まし・・・。
が、そんなダメ男も、風邪をひいた道の手を夜通し握ってあげたり、好きな甘食を買ってきたり、冷たい手をあたためてあげたり、ちょっとした時にやさしさを垣間見せるので、なんだか憎めません。
また道も、ただのデキた嫁ではありません。
実は以前、結婚を考えるくらいに好きだった人がいて、彼が今荘介と同じ町に住んでいると知り、どこかで会えるかもしれないとかすかな期待を抱いて、嫁いできたのです。
荘介が道のことを「1°たりとも勃つかあ!」と表現するのと同じくらいに、道もまた、荘介ではない別のひとへ愛を注いでいたのです。
それに気づいた瞬間、荘介も読んでいる私も、淋しくなります。知らない間に道は心のそばに寄り添っていたから。それを愛と呼ぶのかどうかはわからない、だけどきっと今まで一緒に歩いてきた道そのものが、「シアワセ」だったのだ、と。
バラバラの方向を向いていた夫婦は、肩を並べて、ふたりの場所へと帰ります。
どんなこうの作品にも共通している、「シアワセ」がきっと待っているに違いないラストには、心がぽかぽかします。
『ぴっぴら帳』
私は、インコを買ったことがありません。
正確には、幼い頃は家にインコがいたのですが、私が小児ぜんそくになったため、誰かの家にもらわれていったのです。その数年後にはミーコが家にやってきているのだが・・・なぜ鳥はダメで猫は良かったのか、今だに謎です。
だから、インコの可愛さというのが、よくわかりません。
友達の家のインコは可愛かったけど、心の底では「ウチの猫のほうが可愛いわい」と思っていました。これはどんな飼い主でも同じ感情を抱くと思いますし、インコを飼い続けていれば、「この世でインコほど可愛いものはないわい」と思っていたに違いないのです。
この作品は、とどのつまり作者の「飼い主バカの自己満足」なのです。
私だってミーコやマイのことを4コマにしようと思えば、何百ページだって描けますし。描くだけなら・・・。
だから可愛い顔も間抜けな行動も、たぶんこう思っているんだろうなというアテレコも、インコの魅力を知らなくとも同じ「飼い主バカ」なら、「そうそうそう!」と共感できるはず。
どこかすっとぼけた登場人物、ノスタルジックな商店街の中、ひとさじぴりっと効いているのがそういうインコたちのリアルな描写。顔かたちまでが若干リアルです。でも不思議と、こうの史代のほんわか世界を逸脱していない。これも、作者のインコ愛ゆえでしょうか。
読み終えてみれば、「インコもいいかもなあ・・・」と考えてしまいます。
こうの史代さんを読めば読むほど、また、ウラ話を知れば知るほど、魅力が増していきます。
デビュー前は谷川史子さんのアシスタントをしていたとか。谷川さんは、私が『りぼん』愛読者時代、もっとも好きだった漫画家さんです。少女漫画らしからぬトーンの少ない絵柄、ちょっと天然ぽい主人公、でも丁寧な心象風景、今思えば、こうのさんとの共通点がたくさんありますね。谷川さんもやはり『りぼん』を超えて活躍していらっしゃるようですが。
まだまだ、集めてしまいそうです・・・。
プロ野球をまじめに観るようになったはここ数年ですから、
この稲葉篤紀という選手を知るようになったのも、ここ数年なわけで。
はじめてまともに観たのが優勝した年、
新庄やひちょりと一緒に外野で膝ついてグラブかぶってた姿です。
フツーにノリのいい選手かと思ってました。
実はもとヤクルトで、しかも大リーグを希望したにもかかわらず行けなくて、日ハムに拾ってもらった・・・という苦労話を聞いて驚きました。
で、最近、この本を読んで、ますます稲葉という選手の陰を知ることになりました。
ドラゴンズのおひざ元に生まれて、幼い頃から野球少年。
父親がコーチをしていたチームでしごかれ、
通い詰めたバッティングセンターでは何度かイチローとすれ違い、
高3の夏にはそのイチローに敗れて甲子園に行けず、
大学の下積みを経てプロ入り。
と、これだけならごくありふれた略歴なのでしょうが、
目をひいたのが、小6時のいじめ体験でした。
プロ入りするくらいですから子どもの頃から運動神経は飛びぬけていたでしょう。
私の認識では、運動ができる子ってたいてい活発でクラスの中心で人気者で、
いじめなんて無縁の存在だと思っていたのですが。
ささいなことからクラス全員に無視され、
修学旅行では親にねだって買ってもらったジャージをいじめっ子に横取りされ、
媚びるまでに卑屈になってただ時期が過ぎ去るのを待つことしかできなかった一年間。
大切な思い出になるはずの日々を奪われた稲葉少年の胸中を思うと、胸が痛みます。
が、つらいはずの記憶は、恨むわけでも憎むわけでもなく、淡々とした文章で書かれています。
顔の痣にもサラリと触れる、達観にも似た屈託のなさ。
自分と向き合う作業は、大人になればなるほどしんどいことだと思います。
でも稲葉選手はそれから逃げずにキチンと自分という存在を客観視できる強さを身につけています。
一生懸命、自分の弱さと向き合って考えて努力して、
一生懸命、自分の人生を生きてきたひとなのだ、と、
しみじみ思いました。
自分を語らず人を寄せつけないのもヒーローの特性ですが、
こんな、親しみの持てる、こちらにも笑顔が自然と生まれてくる、
やさしさを持ったヒーローも、アリですね。