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説明的な台詞もなく、ただ淡々と時は流れる。
遊ぶ金欲しさに男女を殺し、死刑囚となった淳。
彼のもとに、弁護士の紹介でクリスチャンの女性がボランティアとして面会に訪れる。
薫と名乗った彼女は、実は淳が殺した男の婚約者で、もうひとりの被害者である女は浮気相手だった。
聖書の中に書き込みをすることで検閲を逃れ、心の交流を交わしていくふたり。
アクリル板をはさんで、決して触れることのできない相手に惹かれていくふたり。
そして月が満ちる。
その時が、訪れる。
死刑囚になったこともなければ、塀の中の人を愛したこともない。
感情移入という言葉がこれほどほど遠い映画もめずらしい。
恋愛ものなら特に、主人公に共感できなければ、その作品はただちに自分の中では駄作となる。
しかし、これは違う。
本来、知らない「誰か」の恋なんて、手触りのないものだ。
静かに、ただ静かに、想いは産まれる。そして心を取り巻いて、いつしか己を支配する。街行く人には見えない。感じない。
我々は、「誰か」の日々をただ、眺めているしかない。
死を待つひとにしても然り。
死刑に値する罪は存在すると思っている。それは合法的殺人ではなく、相応に与うるべき罰であるとも。その理由が少しわかった気がする。
死は生きている人間にとって最も非日常である。
淳はみずから控訴を取り下げた。死をもって罪を清算しようとした。彼にとって償いの方法は、それしか見つからなかったのかもしれない。それを決意した時には、心は凪いでいたのだろう。
しかしその非日常を受け入れるには、独房の日々はあまりにも孤独で静かで、眼の前まで迫った死と向き合わざるをいけなくなった時、彼の心に波が起きる。
いつか突然、誰かの手によって落とされる死の瞬間。その足音はおそらく、今生きている者にとって最大限の恐怖なのだろう。きっとみずからの手で殺めた人たちのそれと同じであったに違いない。
淳は、死刑執行を宣告する足音に日々脅えるよりは、みずからの手でその時を決めようとした。
しかし失敗し、薫は涙を流す。
死刑囚であっても、今生きているのは、彼だ。
触れあえずとも、愛の言葉を口にすることができずとも、「真幸くあらばまた還り見む」ことを思うのは生きている間だけ。
その期限が迫る中、彼らは同じ満月を窓の外に臨みながら、契り合う。
互いは互いの手となり、愛を刻む。
プラトニックな愛をのみほし、淳は、執行台へと向かう。薫もまた、居ずにしてその時を知る。
そして誰かの恋は終わりを告げる。
手触りのないものだ。たとえそれが非日常なものであったとしても、心の中の想いなど、取り出して確かめてみようもないのだ。
行き過ぎた風のように。
評価:★★★★☆(3.8)