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おのづから言はぬを慕ふ人やあるとやすらふほどに年の暮れぬる(西行)
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表現とは、何か。

自分はその方法を文字でしか持たない。

絵画や工作、演奏、歌、書道など、義務教育過程においてさまざまなすべを学んできたにもかかわらず、

人としてもっとも単純で原始的な方法でしか、得ることが出来なかった。

 

ただ、人の創り出したそれを心で感じてきたことは少なくない。

しかしその時の感動を最も端的に表現できるはずの言葉で伝えることができないというのは皮肉な話だ。

誰しもに平等に与えられた文字の中では、自分自身で得たその思いがひどく平板でべたべたして、既成の型枠に押し込められてしまったような気がするのだ。

 

思い。声でもなく言葉でもなく具象化でもなく、我が身ひとつで独自の世界を現出させるというのは、表現者として最も困難なことのように思う。

技術と芸術、両方を兼ね備えなければ、その崇高な境地にはたどり着けない。

凡人には計り知れない鍛練と才知の結集なのだと思う。

 

最も、芸術というのは受け取る側にその真価をゆだねられる部分が大きい。

美に基準などないし、先入観も邪魔をする。どこかの美術館で、展示物に描かれた模様を汚れと勘違いして拭き取ってしまった清掃員がいたが、見る者を100%納得させる芸術など存在しないのだと思う。

 

しかし、それを結果として受け入れなければいけないのが美を表現するスポーツなわけで。

 

本題は、NHK杯フィギュアのこと。

競うのは技術なのか、芸術なのか。結果である点数や順位が、その選手の価値を決めるわけではない。ただ結果が自分の感動の揺れ幅と合致していれば納得できるし、低ければ不当だと思う、真価を語るすべを持たない身勝手ないちファンの結論から言えば、「納得できる」大会だった。

 

高橋大輔と鈴木明子というスケーターは、競技者ではなくもはやアーティストの域に達していると思った。頭のてっぺんからつま先まで、あらゆる細胞がひしめきあって音楽を奏でているようだった。なんちゃら点とかなんちゃらエッジとか、もうどうでもいいのだ。いつまでも、いつまでも魅了されたい。観衆を惹きつけてやまない踊り子は童話の世界だけでなかったのだ。

 

ありあまる才能と技術と美しさを持ちながら、苦しみの中でもがき続ける浅田真央。もうおかあさん状態。祈る気持ちでリンクを見つめる。音楽が鳴り止んだ時、背中に天使の羽が見えた。真央ちゃんには笑顔でいてほしいのだ。身勝手なファンはいつもそう思っている。おとぎ話でもお姫さまは幸せな笑顔で幕を閉じるではないか。彼女にもきっとそんな結末が待っていることを願う。

 

いろいろな思惑と疑念が渦巻いてやまない。芸術が絡む競技はたいていそうだ。日本という国が後進国で大和民族が体格的に見映えしない遺伝子を持つ以上、この問題はファンをやきもきさせ続けるのだろう。それでも芸術に国境はない。浮世絵が世界で絶賛されたように、アピール力の足りない技術をカバーする芸術性を身につけたスケーターたちを、これからも見守っていきたい。

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