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1995年の、春のセンバツ甲子園準決勝。
敗戦校のエースは、マウンドに立つことなく散っていきました。
彼は「悲劇のエース」と呼ばれました。
その前の試合を、私はスタンドで観ていました。
突然、勝っている側のピッチャーがボール球を連発。
ちらちらとベンチ側に目をやりながら手を気にしており、
球場には少し異様な雰囲気が漂い始めました。
明らかな手投げ球でフォアボール。
そこで投手交替となりましたが、実況のない球場ではなにが起こったのかわからず、
応援していた学校だっただけに、心配でなりませんでした。
帰宅してから、彼の左肘が肉離れを起こしたということを知りました。
次の試合、絶対的エースを欠いたチームは決勝を前に敗れました。
その学校は、愛媛県代表・今治西高。
「悲劇のエース」の名前は、藤井秀悟。
大会屈指の左腕と呼ばれた彼ですが、その年の夏も傷が癒えず出場を逃すことになります。
プロの道も約束されていた逸材だけに、惜しまれてなりませんでした。
再び彼の名を耳にするのは、ずっとあとになってからのことです。
大学に進学したことは聞いていたけれど、
野球を続けていることは知りませんでした。
おまけに、プロ入りしていたなんて。
しかも、ヤクルトのエース格なんて。
スゴイ!
復活できて良かったなあ、と感動したのも束の間。
彼を取り巻いていたのは、
離婚・不倫・モラル違反などなど、スキャンダルと批判の嵐。
あの甲子園で涙を誘った「悲劇のエース」の面影は、どこにもありません。
まあ、本当は最初からこういうキャラクターだったのかもしれませんが・・・。
「悲劇のエース」は、ついに球団からほかされてしまいました。
お互いの年棒や実績を鑑みると、常識外れのトレードです。
グライシンガーを巨人に獲られながら、またまた先発投手を追い出すなんて、
最下位球団のやりようとは思いませんが、
そのくらい手に余る存在だったのでしょうか・・・。
まあ、ともかくも、藤井投手は私の思い出のアルバムの1枚である甲子園球児です。
新天地での活躍を期待しています。
余談ながら、1995年のセンバツ甲子園はいろいろと思い出深い大会でした。
阪神・淡路大震災の傷痕生なましく、周りに仮設住宅の並ぶ中、
我が母の故郷・観音寺中央高の快進撃あり、
福留選手擁するPL学園まさかの一回戦負けあり。
その福留選手と並ぶスラッガーだったのが、銚子商の澤井選手でしたが、
高卒でロッテに入団したあとは、日の目を見ることなく解雇されました。
私のお気に入りは関西の吉年投手で、彼も高卒で広島に入団しますが、
同じく日の目を見ることなく解雇されました・・・。
思えば、活躍しているのは福留選手と藤井投手くらいですね。
ガンバレ、S52年生の星・藤井!