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「好きな映画監督は?」と訊かれて、「キム・ギドクです」と答えたら、きっとキワモノ扱いされるのだろう。
でもやっぱり、好きなものは好きなのだ。
というよりも、中毒なのだ。キム・ギドクの毒にやられて病みつきなのだ。
日本では美容整形はまだまだタブー視されているけれど、韓国では日常的なこと。
とはいえ、それが問題化されていないわけではない。
そこへあえて整形する女性を題材にして映画を撮るなど、この監督はいったい何を考えているのであろうか。
しかしそういう毒が好きなのだ。
愛し合うカップル、ジウとセヒ。
でも、愛すれば愛するほど、愛されれば愛されるほど、不安にさいなまれる女ごころ。
ジウは(ギドク作品にしてはめずらしく)いたって普通の男性で、ちょっと目を惹く美人がいればついつい視線を向けてしまう。
不安だらけのセヒはもちろん敏感。
彼の心はもう自分にはないのではないか、
いつも同じ自分の顔に飽きてしまったからなのではないか。
唯一無二の愛は舵を狂わせ、笹舟は彷徨いの果て、違う顔の自分へたどりつく。
「普通の男性」であるジウは、突然行方をくらましたセヒを忘れられずにいつつも、
コンパで知り合った女や昔の友達にフラフラしてしまいますが、見えない誰かに妨害されているうちに、スェヒという美しい女性に出逢います。
実はその正体はセヒ。知らずに惹かれていくジウ。
セヒが求めていたジウの確かな新しい愛。
しかし、それは思っていたものとは違いました。
ジウが「別人である」スェヒを愛すれば愛するほど、
セヒの心は切り刻まれていきます。
淋しさに耐えきれず、整形を告白したセヒ。愛を二重に裏切られ、怒り狂うジウ。
愛ゆえに、彼もまた、「普通」のボーダーをギドク流にやすやすと飛び越えてしまいます。
愛に「絶対」はあるのだろうか。
うつろいやすい人の心はさながら海の満ち干きのようなもの。
愛に満ちれば道はなく、
愛に渇けば地を歩む。
ふたりの愛の結末は、ふつりと途切れた階段のようなもの。
それでも《TIME》は流れていく。海は満ち干きをくり返し、失ったものは戻らない。
「普通」の底流に混在していた狂気の愛。ギドク監督のひとつの主張を垣間見た気がしました。
ところで、この映画で主人公たちが何度も訪れる海辺の彫刻公園ですが、
あまりにキテレツなオブジェの数々に、「これはギドク監督が映画用に作ったものだろう」と思っていたら、実際に存在していることがわかりました。
子どもは入っちゃいけません。
評価:★★★★☆(3.5)