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おのづから言はぬを慕ふ人やあるとやすらふほどに年の暮れぬる(西行)
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昨年末、3年に及んだスペシャルドラマ『坂の上の雲』が放送終了しました。

この日が来るとは知りながら惜しく淋しく、最終回を迎えました。

 

華麗なる絵巻、胸躍る戦記、群雄割拠の英雄たち。それらと同列に語るには、近代史はあまりにも複雑で生々しく、興味本位で掘り下げることもできず丸暗記で押し通した学生時代。しかしそこにこそ自分に近しいルーツがあり、知識欲とはまた違った部分を揺さぶられ、歴史とは何か改めて考えさせられた『坂の上の雲』は、司馬氏の他の著書とはまた違った意味で一生書棚から降ろされることはないであろう本になりました。

そしてこのドラマも、記憶媒体に残しておきたい作品となりました。

 

命。今自分がここに在ること。それは過去から連綿と綴られてきた歴史の道の上にある。

歴史を知ること。それは己を知ること。命を知ること。生と死を知ること。

 

『坂の上の雲』で描かれた時代背景において、思想や解釈の違いによる歴史的論議は今でも数多くある。それは専門家に任せておくとして、読者として、視聴者として感じるのは、以前にも書いたけれども、これは歴史小説ではなく、明治期を生きた人間たちの生と死を描いたドラマであるということ。

生きる、生ききるとはどういうことか。真之や好古、子規の生きざまからそれを思う。

彼らを含めた先人たちの築き上げてきた文化文明、その上に与えられた命。平等に待つ死に対し生を全うしたと言い残せるかどうか。

 

ただ漠然としたあこがれや興味だけでない、歴史に触れるとはこういうことなのだと。

有史以降のすべての命の営みが、詰まった作品であると思います。

 

大作を観終えた後はしばらくぬけがらのようになってしまいました。

日本海海戦においても、陸戦と同じく硬質な描写は抜かりありませんでした。海戦史上もっともドラマチックな展開にあっても、救国の英雄は存在せず、軍人はなまぬるい感傷を拒絶するかのように淡々と己の仕事を全うし、状況に応じて白旗を掲げ講和に持ち込むその流れにこそ、戦争の本質を突くものがありました。

三人称で語られる小説とは違い、ドラマでは登場人物が何らかの決着をつけない限り終わることはありません。戦争を終え、まるで余生を過ごすかのごとく、穏やかな松山の海で釣りをする秋山兄弟。歴史を知っているはずなのに、国を背負い戦場に出たふたりにこんな日常が戻ってきたことに、喜びを感じてしまいました。

後日談として描かれた、ポーツマス講和条約に向かう小村寿太郎と伊藤博文との一連のやりとり。原作よりも印象深かった今までのふたりの足跡を思うと、手ぶらで戻ってきた小村を無言で出迎えた伊藤の言葉にできない胸の内が手に取るようで、本編が終わった後もなお、感動させられました。

もちろん、他にも印象的な俳優さんは大勢います。むしろほとんどが、ドラマの質を損なわない名演であったと思います(赤井英和だけはちょいと・・・)。

今までも、何度でも観たいと思うドラマはありましたが、DVDを本気で買おうか悩む作品はこれのみです。

残念だったのは、これを大河ドラマとして一年通しで観たかったこと。もっとも、通常の大河とは比較にならない予算がかかったそうですから、クオリティは下がってしまうでしょうが・・・。

 

今後も、テレビからこのようなドラマが生み出されることを願います。

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