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『逃げる女』
世界というものは、自分と他者で成り立っていて、他者の視点や評価が、世界の中での自分の生き方を決定づける部分もあります。
梨江子の描かれ方も同じです。冤罪の罪を着せられた梨江子の道行は、彼女の今の苦しみと過去の辛さと未来の闇が伝わってきて、つい梨江子の視点で世界を見渡してしまいがちでした。
しかし現実は違う。梨江子には、梨江子を囲む他者がいる。その他者は、冤罪であるはずの罪を梨江子に着せ続けようとする偏見の目線であったり、贖罪という名目で梨江子に向き合いながら実は彼女を通過して己の過去を見つめ直しているものであったり、自由な視点から梨江子を論じる。それは時に梨江子の立場に立とうとする視聴者を惑わせる。なぜなら、梨江子は梨江子が思っているようには、他者から思われていないから。どんな世界のどんな人間であれ、他者の中に存在する自分は自分ではない。
父の、母の、妹の中にいたそれぞれの梨江子。美緒の中にいた梨江子。あずみの、斉藤の中にいた梨江子。それは同じ梨江子でありながら、別人でもある。世界の中で、他者に囲まれて生きるということは、別人の自分と向き合い、戦い、葛藤しながら生きるということでもある。
これからのことを尋ねられ、「わからない」とつぶやいた梨江子。その瞳の先には、未知の未来が広がっている。他者の中の自分のように、かたちは漠然としてつかめない。しかし、それでも生きていかなければならない。他者の生きるこの世界で。
だから苦しい。だから辛い。だからこの先に闇を見る。
それでも他者からしか受けられないものはある。傷ついた心を癒すのは包みこむ愛。闇を照らすのは光。空に照らされきらめく海のように、この先、他者から与えられる光はきっとある。
美緒もそれを知っただろうか。梨江子の想いは、届いただろうか。
余白で語る、と言いますか、省略した部分を徹底的に見る者に委ねる、現代には少ない挑戦的なドラマでした。
『ちかえもん』
高校生の時、特殊な学科だったこともあって、能・狂言・歌舞伎・文楽・落語などなど、伝統芸能と呼ばれるものはひととおり鑑賞しました(そういえば邦楽・雅楽はなかったな)。
鑑賞した、というより鑑賞させられていたこともあって(しかもその後に感想文を書かなければいけなかったこともあって)、たいていは退屈にしか感じず、能の時など半分以上睡眠していたのですが、唯一興味深く鑑賞したのが文楽でした。
人形の繊細な動き、唐突なぶん回し、義太夫の美声、太棹三味線の迫力。有吉佐和子『一の糸』を読んだこともあって、ひとつひとつが心に響きました。声と楽器と人形が一体となって作りあげる美しい舞台、日本が誇る至高の芸術であると感じたことを今でもはっきり憶えています。
とはいえ、文楽を鑑賞したのはその一回こっきり、テレビで見ることもありませんので、えらそうに語れる身分ではないのですが。
というわけで近松門左衛門というよりは、キャスティングと斬新な演出に惹かれてあまり期待せずボンヤリ視聴を始めたのですが、これが存外おもしろくて最終回はリアルタイムで見てしまいました。
『あまちゃん』のうさんくさいマスターの面影はまるでない、松尾スズキ演じる冴えない中年男のちかえもん。あどけなさがほんまかいらし万吉という謎の人物。このふたりのかけあいが漫才のようで、時代劇なのにクスクス笑ってしまいました。年増遊女・お袖のツンデレっぷりも、喜里の凛とした立ち居振る舞いも、黒田屋の悪人ヅラも、すべてのキャラクターが際立っていて飽きさせませんでした。
最終回は冒頭から心中、ちかえもんの変貌、そして初舞台とめまぐるしい展開でした。名作『曽根崎心中』はいかにして生まれたのか、それもこのドラマの見どころのひとつであったと思いますが、お初徳兵衛の切ない恋と悲しい結末を物語る北村有起哉の義太夫節が見事で、たった数カットながら胸に迫るクライマックスは、おそらく当時の観客と同様、涙を禁じえませんでした。ようやく果たされたちかえもんの親孝行。ついに明かされた万吉の正体。肩透かしながらも心が暖まった心中の真実。すべてが符合した見事な脚本に唸らされました。
しかしこのドラマの完成度をもっとも高めた要因は、なんといっても万吉役・青木崇高の好演でしょう。めちゃくちゃらぶりーでした。…などという陳腐な言い回しはわしのプライドが許さんのである。