『風立ちぬ』のひとつ前の宮崎駿監督作品。公開から7年を経てようやく鑑賞できました。これで『カリオストロの城』以降の宮崎駿映画をコンプリートしたことになります。
『風立ちぬ』が思いのほか監督の伝えたいことをストレートに表現していたと感じただけに、いまいち理解できなかった『ハウル』のあとの『ポニョ』はいったいどのような作り方なのだろうと、期待と不安半々で視聴したのですが。
主人公は子ども、モチーフは人魚姫。つまりこの作品は子ども向けで、あかるい世界観に包まれているものだと思いこんでいました。こども向け作品をすすんで見たいとも思えず、鑑賞にここまで時間がかかってしまいました。公開当時の大ヒットと主題歌をめぐる社会現象はいやでも耳に入ってきたものの、かんじんの作品自体の評価はあまり聞こえてこなかったのは、今から思えば不思議ではあります。
その理由は、この物語が決して誰もが知る人魚姫の展開をなぞっているわけではなく、昨今の宮崎駿作品の傾向である難解な表現方法から逸脱していなかったからなのでしょう。
そしてこの作品の受け止め方は、東日本大震災以前と以降で大きく変わってしまうであろうとも思いました。町を襲う津波、逃げる車。その映像を前にまだ心穏やかにはなれない日本人は少なくないでしょう。もちろんそれが作品の評価に直結するわけではありませんが。
海沿いの静かな町。絵本のような穏やかな風景からフォーカスしてみれば、約束を守らない夫に息子の前でヒステリーを起こす妻、親を呼び捨てにする子ども、熱があっても保育所に預ける親と預かる保育士など、現実のあちこちですれ違う一瞬にして一日ぶんの不快感を残していく住人たち。それでも海からやってきたポニョを受け容れ、水害を受け容れ、沈んだ町の上でしあわせと喜びをわかちあう。
魚の小骨のごとき違和感は最後までこの世界がファンタジーなのかリアルなのか、見るものとの間に横たわり続けます。
よってアンデルセンの『人魚姫』とは異なり、ポニョの願いが叶うラストシーンが果たしてほんとうにハッピーエンドとして受け止めてよいのやら、鑑賞後もなおのどの小骨にひっかけて飲み込めないままなのです。
ディズニーの『リトル・マーメイド』なら、ハッピーエンドのエンディングでは誰もがハッピーで笑顔になれるだろうけれど、そこがひと筋縄では行かない宮崎駿。
そもそも海の泡と消えた人魚姫は悲劇の象徴のように語られますが、分をわきまえぬ恋をして優しい姉たちの忠告も無視した自分勝手な行動が招いた当然の結果です。もちろん幼い頃はその結末に涙したものですが、甘い幻想もピュアなロマンもすべてかなぐり捨てて見れば、ただの恋に狂った女のたどるべき哀れな末路にすぎません。
しかし恋ほど自分本位なものもなく。
刹那のささいな心の震えが、五感を歪ませ足もとを狂わせ行く手の先を狭めてしまう。歴史を紐解いてみれば、時にそれが世界を変えてしまうこともあります。それほどの力がポニョの幼い胸に咲いたはじめての感情にも秘められていました。町を船を人を呑みこむ津波の上を、未来に向かって走るポニョ。小さな恋の、あまりにも大きすぎる代償をポニョは知らない。待ち受けるしあわせを疑わぬ無邪気な笑顔には、背筋が寒くなりさえします。
人魚姫の恋の代償はみずからの命。だがみずからの願いのために他者を犠牲にする恋もまた、おおいなる悲劇。恋に狂ったふたりの人魚姫、ハッピーエンドはありえない。誰かがしあわせになれば誰かに悲しみが訪れる。この海が満ちればあの海が干くように。きっと世界はそういう因果で構成されている。この作品は、太古より国境も言語も越えて人びとを支配し続けてきた恋という愚かな魔法の因果律を、人魚姫になぞらえて描いたのかもしれません。
映像の迫力と卓越した色彩感覚はジブリならではで、海の表現方法と技術力にはあいかわらず圧倒されました。声優も『風立ちぬ』の主演よりはよほど聞き取りやすかったです。所ジョージはいまいちでしたが。