凶悪犯罪と呼ばれる、おそろしい事件を検索してはひとりで勝手に震えて、しかし文字を追うことをやめられない。なぜ、人はここまで残酷になれるのか。何が犯人をそうさせたのか。法廷はそんな心の闇を暴けるのか。死刑や懲役は、本当にその罪に値する刑罰なのか。思うところはつきずそれでも日々、理解を超える凶悪な真実がテレビ画面を転がり続ける。
しかし、我々が目にするそれらの真実は誰かの手によって真実となりえたもの。
この世には、白日のもとにさらされることのない多くの罪が、闇の中に眠っている。
主人公・藤井が生活を犠牲にして追い続けた真実。最初は獄中の須藤の曖昧な記憶からは浮かび上がってこない「先生」像。それが藤井の取材により徐々にあきらかになっていき、やがて物語は過去にさかのぼり、須藤と「先生」が犯した罪のすべてが白日のもとにさらされる。まるで熟した果実を握りつぶすようなたやすさで、その手は他人の命の歩みを止める。心は何も感じない。むしろ誰かが死ねば死ぬほど潤される。その目に映る世界は希望と光に満ちている。そういう人間も、この世には存在するという。
藤井が真実の追究に執念を燃やしたのは隠蔽された罪に対する怒りだった。真実を記事にすることで凶悪犯罪者を認知させ、理不尽に失われたいくつもの命を弔うこと、それは記者としての使命なのかもしれない。だが世間が同じ怒りを共有するとは限らない。
かつて藤井のいちばんの理解者だったであろう妻は、仕事にかこつけて家庭の問題から目をそむけ続ける夫に失望する。そして痛烈なひとことを投げつける。「記事を読んで、楽しかった」と。
犯罪小説のようにショッキングでスリリングな凶悪事件。藤井が伝えたかったのは罪の重さとそれに対する怒りであり、娯楽では決してなかったのだ。妻だからこそ、夫をいちばん傷つける言葉を知っていたのかもしれない。冷酷な犯罪者よりも、背筋を寒くするひとことだった。
人の命に軽重はないという。その通りだと思う。
しかしテレビで殺人事件や虐待のニュースを見るたびつぶやいてしまう。こんな奴、死ねばいいのにと。
どこかで命の線引きをしている。それをしないのは神だけだ。
裏切りをもっとも嫌っていたはずの須藤が自分を裏切っていたことを知った時、神ならぬ藤井は叫ぶ。「死ね」と。
誰かの命を奪うこと。誰かに死んでほしいと思うこと。その心は紙一重なのかもしれない。
人は誰でも、いつでも凶悪になれるということなのかもしれない。
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