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この物語は、行助という少年が、少年院に護送される場面から始まります。
優等生の彼が、なぜ犯罪に手を染めることになったのか、
事情は徐々につまびらかになっていくのですが、
一冊を通してみても、行助の心情に届くことはありませんでした。
あまりに理性的でありすぎるのです。
自分の家族も、出生も、恋も、犯した罪すらも、客観的にしか見ることができないのは、
一種の悲劇でもあります。
彼の母、義父は、彼を愛するが故に悩み苦しみます。
そちらのほうがよほど人間的でありますが、行助は彼らの思いを感傷的であると拒否します。
理性と感情、相反するふたつの性質を兼ね備え、さらにそれを制御できるのは、
生物の中でも人間だけだと思いますが、
身近なものに関しては、どうしても焦点が狂わされ、どちらかに偏りがちです。
その場合、えてして人は感傷に陥ります。
相手が理性側にいると、感傷は非常に白々しく映るもの。
感傷とはねつけられた側は、感情的なぶん傷つきます。
つねに公平な、公正な視点というものを身につけるのは、困難です。
人間には感情という厄介な衝動がありますから。
それでも、行助が親を思う感傷を備えていたならば、
悲劇はかたちを変えて、この家族の間には起きなかったのかもしれません。
それもまた、行助が欠陥を持った生身の人間だったということを表しているのでしょう。