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広島に原爆が投下された日付を知る人は少なくなってきているようです。
私は両親が終戦間近の8月生まれであることから、毎年8月6日、9日、15日という日を印象深く迎えるのですが、もし誕生月が違っていたら、何となくやり過ごしていたかもしれません。
最近はテレビでの戦争特集も減り、『火垂るの墓』を残酷すぎると敬遠する親もいるそうです。
現代日本の政治経済、ひいては国民の日常生活にも大きく影響を与え続けている先の戦争は、遠い昔のこと、教科書の一事象にしか過ぎなくなっているように思えます。
それでも、8月になれば思い出し、祈り、願う。
何に対して、何を描いて。漠然と考えていた「平和な未来」は、いったいどんな世界なのか、最近わからなくなりつつあります。
太古から支配と利権の奪い合いをくり返してきた人類。原爆の惨禍を目の当たりにしても核兵器を作り原発を乱立する人類。果たして一滴も血を流すことなく幼子が命を落とすこともない「平和」は、いつかこの星に訪れるのでしょうか。
それでも祈り続けずにはいられません。空想平和主義と嘲られても、戦は愚かなことだと、平和な未来が来るようにと(今現在は平和とは決して言えない)。
さて、本題。
この作品(『夕凪の街 桜の国』もそうですが)は決して反戦思想に基づいて描かれたものではありません。作者自身も自分の意図と主にマスコミの受け取め方の矛盾に苦しんでいる様子がエッセイなどで垣間見られますが、現代を舞台にした他の作品と何ら変わらない、市井の人々の、のんびりしていて、ちょっと変化があって、感情が揺れて、笑ったり泣いたり、誰もが過ごす何てことはない日々が綴られています。ただそれが戦時中で、右腕を失ったり、原爆が落とされたり、家族を亡くしたり、玉音放送を聞いたりした、それだけのこと。
ただそれをそのままドラマにしても、ヒロシマの日の前日に放送する意味はないので、多少のメッセージ性が加えられても無理はないと思っていたのですが、想像よりも原作に忠実で、そこに感動しました。
北川景子にはびっくりしました。正直、すずのイメージとはかけ離れていたので懸念していたのですが、素直にうまかったです。終戦を迎えた時、広島で焼け落ちた実家の看板を抱きかかえた時の見境ない号泣は女優魂すら感じました。一方、周作はマジメな青年に徹していて、原作の末っ子長男的な雰囲気はなかったですね。原作で哲に嫉妬して夫婦喧嘩する場面などは非常に可愛らしかったのですが、小出恵介はちょっと怖かった;
リンの出自がはっきりしていたのは、ドラマ的にはよかったと思います。原作ではあくまですず視点なので、リンからも周作からもはっきり語られることなく、亡くなってしまいました。紅筆で描かれた過去のエピソードも、真実なのかどうかはわかりませんから。
径子はやはりイメージどおりでした。台詞や立ち居振る舞いにかなりアレンジを加えていましたが、原作どおりにすると意地悪小姑の印象が強すぎるからでしょうか。
芦田愛菜は宣伝にかなり使われていた割には最後だけ、という感じでした。原作において、「最後の手紙」とリンクする少女の凄絶な数日間は衝撃的でしたが、ドラマで描くにはやはり無理がありましたかね。
哲さんを死なせたことはドラマとしては許容範囲です。
全体としては、北川景子の好演と、スタッフの原作を大切にする心意気によって、原作ファンとしても満足のいく良質なドラマに仕上がっていたと思います。