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幼女誘拐事件に湧くボストンの街。
私立探偵を営むパトリックとアンジーのもとに来訪したその少女の伯母は、彼らに警察とは別に捜索を依頼する。
気の進まないアンジーを連れて家に出向いたパトリックを迎えたのは、若いアマンダの母親。ふたりの調査により、彼女の乱れた生活があきらかになっていく。
主人公のパトリックは私立探偵という設定にしては、ちょっとお坊ちゃんぽい顔立ちの優男。もちろん、裏社会にそれなりの人脈もあるし、勇敢さも持ちえているのですが。
私立探偵につきものなのは相棒の女性。しかも美人。もちろん、アンジーはその要件を満たしています。詳細な設定は不明ですが、パトリックをしっかり支え包容力のあるパートナーです。
『ミスティック・リバー』と原作者が同じであるだけあって、ただの探偵ものではありません。幼い子どもが被害者という点では『ミスティック・リバー』と通じるものがありますし、作品全体を通して流れる重苦しい雰囲気も同様です。
アマンダの母親であるヘリーンは、「母親でありながら」酒を呑み麻薬の運び屋を勤め、男遊びも激しい道楽者。アマンダが誘拐された時も酒場で遊んでいました。そんな母親にアンジーは激しく反発します。もちろん観ている側の私も同じ感情です。
日本においても、「母でありながら女」を優先したことによる悲しい事件が次から次へと起こります。記憶に新しい西淀川の女児遺棄事件においても、ニュースを聞きながらやるせなく情けなく、涙が出ました。もちろん、母親だけが責められることではありません。でも、子を守るべきが母。その立場を忘れた行動には、怒りを禁じえません。
それでも「母である」という事実だけで、擁護されることもある。
同じ女性でありながら「母でない」という事実だけで、疎外されることもある。
アンジーを変えたのは、「子どもがいない君にはわからない」というひとことでした。
同じく子どものいない女性として、これほど屈辱的な瞬間はありません。
パトリックとアンジーの間になぜ子どもがいないのか、その理由は映画においては不明です。仕事を優先しているのかもしれないし、あるいはどちらかに原因があって子どもができないのかもしれません。もちろんそれを他人に語る必要はない。ですが、子どもがいようがいまいが、ひとりの少女の命を救い出したいという気持ちには何ら変わりがないというのに、「子どもがいない」という事実だけでその思いを無下にされ、アマンダを救うため暗闇のダムへ飛び込んだアンジーの胸中を想像すると心が痛みます。
当初ビジネスであったはずの事件は、思いがけない方向へ展開し、アマンダの行方をめぐってパトリックとアンジーの間にも亀裂が生じてしまいます。
男は理論で動き、女は感情で動く。こういう考え方を普遍的にあてはめるのは好みませんが、この一件をめぐってのふたりの行動はそうでした。公正を基盤とした法律のもとに感情は無力です。ですが法律は必ずしも未来を守ってくれるとは限らず、法もまた感情の前でつねに正しいとは限りません。
一時にしろ感情で動いたことを恥じ理論を選択したパトリックが、果たして正義だったのか否か。
答えは出ません。おそらく、きっと永遠に。やりなおしがきかない以上、パトリックは後悔を打ち消してその先を見守っていくのでしょう。そしてもし感情を選択していたら、アンジーもまた、自分に言い聞かせながらの生活を送っていたはずなのです。
人生の選択に正解などないのだ、と。
母とは何なのか。母性とは何なのか。子どもがいるいないの違いは何なのか。正義とは何なのか。
いろいろ、考えさせられる作品でした。
ひとつ難をあげるとすれば、モーガン・フリーマンの存在感でしょうか。群を抜いていて逆にそれがひとつのメッセージとなってしまいました。
評価:★★★★☆