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ベルリン国際映画祭において、主演の寺島しのぶが最優秀女優賞を受賞したことでも話題になった作品です。
モチーフは江戸川乱歩作『芋虫』だそうですが、戦場において四肢と聴覚、声を失い「軍神」として帰還した久蔵と、その妻シゲ子の物語。
おそらく、監督がこの映画においていちばんに主張したかったことは確固たる【反戦】の姿勢だったのだろうと思います。
ストーリーの中に差し挟まれる当時の映像とラジオ音声、そして最後に提示される戦死者の数。ラストで元ちとせが歌う『死んだ女の子』は、ヒロシマで亡くなった少女の話です。
この歌が素晴らしいことは確かですが、ヒロシマと本編はかかわりなく、唐突な印象を与えられます。
映像も今現在ではテレビで到底お目にかかることのない、ショッキングなものばかりでした。
久蔵とシゲ子夫婦も相当にショッキングですが、やはり事実には勝てません。
「戦争は悲しい、恐ろしい、愚かなことだ」という監督の思いは、久蔵とシゲ子の悲惨な物語の中で充分に暗示されており、これらが少し蛇足の感を抱かせたことは残念であったように思います。
ただ、この映画が本編だけであったなら、不快感や薄気味悪さにも似た、早く記憶から抹消したくなるような後味が残ったことは確かです。
男は、浮気や風俗の体験は自慢げに語るくせに、夫婦の閨房の話は一切他言しようとしません。私は男ではないからわかりませんが、どうやら話したくないようです。聞きたくもないそうです。AVにも夫婦ものなどというジャンルは存在しません。勝手な想像ですが、おそらくそれは浮気や風俗と違って、家族としての営みだからではないかと思います。
つまり、子孫を繁栄させるといういかにも動物的な本能に従っての衝動であり、心をときめかせるような甘い言葉もなければ新しい感動もなく、恋だの愛だのスリルだの、交合に対して人間だけが求める興奮もない。
「食べて、寝る」。そして「交わる」。動物だった頃から変わらぬ人間の欲求を発散している現場を垣間見ても、自分も同じ動物であることを思い知らされるだけで、愉快になれないのは自然なことかもしれません。
だからこそ、食べて寝て交わる「だけ」の生活を送る久蔵の姿を見せられ続けるのは、非常に苦痛な時間でした。
戦争によって変わってしまった久蔵。
しかし彼が出征前、シゲ子にとって良き夫であったかといえば、決してそうではなく、シゲ子は毎夜「石女」と罵られ殴られ犯されていました。その頃から久蔵は、シゲ子にとって「食べて、寝る」そして「交わる」だけのキャタピラーだったのかもしれません。
ただ、本当にキャタピラーになってしまった今は、力で征服されることなく、シゲ子の思いのまま。
四肢のかわりに得た勲章。いつの間にか、それらは軍神・久蔵の軍服ではなく、子を産まぬ非国民からうってかわって「献身的に夫を介護する日本女性の鑑」と崇められるシゲ子の胸に光るようになる。
腕力と軍神様の威光によって妻を屈服させていた久蔵はシゲ子に支配されるようになってはじめて、四肢とともに失っていたある記憶を呼び起される。
その苦しみをシゲ子は知らない。のたうちまわる久蔵を貶めて嘲笑う。
妻なら、夫の苦しみに寄り添ってやるべきではないのか。
夫なら、妻に感謝し今までの暴虐を謝罪すべきではないのか。
そんな薄っぺらい建前論では語れない。愛だの憎しみだの、ここには一切の感情も生まれていない。
観ている側としては、人間だから、本当はそこに愛が欲しい。
この絶望的な夫婦にも、最後には愛が生まれるのではないかと、実はほんの少し期待していました。
でも、そんな時代ではなかった。
終戦が訪れても、ふたりのそれぞれの戦いに本当の終わりは来なかった。
最後まで、そこに愛はなかった。
人が人を殺してもゆるされる、戦争。
生まれいでて生かされるべき命が容赦なく見知らぬ誰かの手によって奪われていくのが戦争。
人でしかない人が、神と崇められるのが戦争。
愛のない夫婦が愛を得ることなく続けた夫婦生活、
それは互いに戦争の孕む狂気によって繋ぎとめられていただけだったのかもしれない。
8月15日。あらゆる意味での解放の日が来ても、そこに救いなど存在しない。
それこそが、戦争がもたらした傷あとなのかもしれない。
評価:★★★★☆(3.8)