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『カーネーション』
15分とは思えないほど濃密だった視聴時間も、ついに終わりを迎えてしまいました。
老年期編に入ってからの急激な変化に戸惑いを憶えつつも、次第に夏木マリ=糸ちゃんにのめりこめるようになったのはもう3月の下旬のこと。
脚本家の渡辺あやが「尾野真千子編の最終回を書き終えて空っぽの状態になってしまった」と語っていましたから、夏木編の最初はやはり乗り切れない脚本と演出の稚拙さ、夏木マリの岸和田弁の不自然さも相まってあのような状態になってしまったのかもしれません。しかし朝ドラとは思えない「間」で語る『カーネーション』本来の良さが際立った最終週は、糸ちゃんの人生の集大成にふさわしい、壮大で愉快で美しいラストでした。改装前の二階の部屋に横たわり、愛おしげに畳に頬を寄せるシーンは、糸子がこの部屋で過ごした数々の場面を思い出し、涙を抑えられませんでした。
尾野真千子があまりに好評すぎたために夏木マリにかかったプレッシャーは相当なものであったらしく、手厳しい批判の数々も当然本人の耳には届いていたようですが、やはり「死」を前にした時の、体験したことない死への畏怖、生への悦び、そしてすべてへの感謝の気持ちは、やはり平均寿命の半分以上を生きた人間にしか表現できないものだったのかもしれません。
人生の終着点に立ち、「死」ではなく、「生」へと向けられた涙を描いた糸ちゃんのラストカット。その瞬間に、幼い二宮星糸ちゃん、少女から壮年期までの尾野真千子糸ちゃん、そして夏木マリ糸ちゃんが、赤く太い一本の糸で縫い上げられた人生を生き尽くした、その過程を観てきたのだとはっきり感じました。さんにんの糸子に、喝采。
最近、思うのです。歌の『チキンライス』のように。
♪親孝行って何って考える~
このドラマを観て、ますます考えるようになりました。
そういえば、関西地方だけ『もういちどカーネーション』の再放送が始まるんだっけ。楽しみだな~。
・・・って今日からか~い! ガーーーン。